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【のびやかに・浜木綿子】(6)言えなかった一言のせりふ

6/13(火) 15:02配信

スポーツ報知

 宝塚歌劇団40期生として、初舞台を踏んだのが1953年春。念願のラインダンスでしたが、見るのと実際にやってみるのとでは大違い。“一糸乱れぬ”ための呼吸、難しさは、想像をこえるもので毎回、体力を極限まで使い果たしました。

 この時、浜木綿子(はま・ゆうこ)の芸名を初めて使います。演劇の恩師、堀正旗(せいき)先生が、万葉集で柿本人麻呂が詠んだ歌から付けてくださいました。どこで区切るか分かりにくいですよね。みんなに「何て読むの?」と聞かれ、逆に覚えてもらえるのでは、と思ったのです。

 しかし堀先生はこの年に亡くなられました。少しでも成長した姿をお見せしたかったのですが。残念ですが、いただいた名前はとても気に入っています。ただ最近はテレビ出演も少ないので、宅急便の人に「浜木(はまき)さん~」と呼ばれたり、若い人から「はま・もめんこさん」と言われたり。いくつ読み方間違いできるのかしら? と思うこともありますが、そんな方にはこの機会に覚えていただければ幸いです。

 同期生67人と舞台に立ち、まぶしいライトを浴びて「群舞だけでなく、次は役も演じたい」と思い始めました。しかし、初舞台から3か月後の7月。忘れられないことが起きます。体調を崩した先輩の代役が、突然まわってきたのです。雪組公演「ひめゆりの塔」(菊田一夫演出)。隊長役で主演の明石照子さん(85年死去、享年56)に、女子学生役の私が防空壕(ごう)内で発する、ひとつのせりふでした。

 「第22壕代表、卒業式参列のために参りました」。過度の緊張に襲われ、「そつぎょう」が「そつごう」となってしまったのです。それも、その日2回公演で両方とも。「大恥かいてしまった」と落ち込みました。でもショックを引きずっている場合ではありません。「追い込まれたときほど気持ちを切り替える」が私の身上。「この恐怖心を克服しなければ、あとはない」と奮い立たせました。

 入団1年目だろうと、舞台人としてプロ。一言のせりふが、どれほど大事か。それを思い知ったのです。でも19歳の私はうまく言えませんでした。稽古でうまくいっても、舞台でできなければ意味はないのです。実力がなかったのでしょう。

 65年前のことなのに昨日のように思い出します。そしていま、自分の共演者でせりふに苦しんでいる人を見ると、言うのです。「その気持ち、難しさ、悔しさ分かるよ」と。せりふが一言しかなければ、挽回したくても次がないのですから。

 ありがたいことに、後年は口跡の良さをほめていただけるようになりました。でも今があるのは、あのとき「言えなかった一言のせりふ」の苦い経験があったからこそ、なのです。(構成 編集委員・内野 小百美)

 【堀正旗氏】宝塚創成期の功労者の一人で歌劇団の基盤をつくった。脚を高く上げるラインダンス導入で知られる白井鐵(てつ)造氏が“レビューの王様”と言われたのに対し、学者肌の一面を持った堀氏は、米独仏の芝居に造詣が深く“演劇の神様”的な存在だった。

最終更新:6/21(水) 12:59
スポーツ報知

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