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社説[追悼 大田昌秀とその時代]ひたむきに平和思想発信

6/13(火) 7:45配信

沖縄タイムス

 元沖縄県知事の大田昌秀さんが12日、呼吸不全と肺炎のため、那覇市の病院で死去した。

 この日が92歳の誕生日だった。家族や教え子らが病室を飾り付け、ハッピーバースデーを歌ったあとに、眠るように息を引き取ったという。

 久米島の具志川村で生まれた。父親は大田さんが1歳の時に単身ブラジルに移住し、母親のカメが女手一つで4人の子どもを育てた。

 経済的にゆとりがなく、小学校卒業後に、小学校の用務員として母親を助けたこともある。

 太平洋戦争が始まった1941年、県下の優等生が集う沖縄師範学校に進学した大田さんは、45年3月末、19歳の時に、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員された。

 多くの学友を失った。多くの住民が戦場をさまよい、追い詰められ、死んでいくのを見た。「沖縄戦は戦争の醜さの極致だ」-大田さんは戦後、自著の中で、ニューヨーク・タイムズのボールドウィン記者の文章を繰り返し引用している。

 沖縄戦体験者も研究者も、県知事も参議院議員も平和活動家も、県内外にはたくさんいる。しかし、これらの活動を一身で経験し、倦むことなく平和の尊さを訴えてきた人は、大田さん以外にいない。

 沖縄固有の歴史体験に深くこだわることによって普遍的な「平和思想」を紡ぎだそうとした生涯だった。

■強いられる住民犠牲

 大田さんが『醜い日本人-日本の沖縄意識-』を出版したのは、主席公選のあった翌年、69年のことである。

 「日本人は醜い-沖縄に関して、私はこう断言することができる」

 極めて刺激的な文章で始まるこの本は、本土でも大きな話題を呼び、賛否を巻き起こした。彼は何を訴えたかったのか。

 「沖縄戦における犠牲の意味をあいまいにし、戦争の処理さえも終わっていないまま、沖縄をして、ふたたび国土防衛の拠点たらしめようとの発想」に対して、批判の刃を向けたのである。

 「沖縄の人びとは、もはや『日本防衛のため』とか『極東の平和のため』にといった大義名分で一方的に犠牲を強いられることに真っ向から拒否している」。

 あれから半世紀近い歳月が経つというのに、「沖縄の負担と犠牲を前提にした日本の安全保障政策」という構図は変わっていない。

 辺野古問題とは、この体制を今後も維持しようとする政策にほかならない。

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最終更新:6/13(火) 7:45
沖縄タイムス