ここから本文です

<マラソン>別大生みの親・故池中氏の世界記録…記事を発見

6/14(水) 15:00配信

毎日新聞

 ◇大分の市民団体

 別府大分毎日マラソンの生みの親、故池中康雄氏(1914~92年)がマラソンの世界記録を出した日の様子を記した48年の新聞記事を、池中氏の出身地である大分県の市民団体が見つけた。池中氏はその後、戦争の影響などで2度も五輪に出場できず「幻の五輪代表」とも言われた。記事はかつて日本を代表する選手の貴重な記録として注目される。

 記事を見つけたのは「大分プランゲ文庫の会」(25人)。同文庫は、占領下だった45~49年に連合国軍総司令部(GHQ)が検閲のため日本全国から集めた大量の文献で、現在は米メリーランド大が所蔵している。地方の新聞から雑誌、社内報まで、あらゆる出版物を網羅している。

 同会が文庫の中から見つけたのは、池中氏の地元、同県中津市の「中津文化連盟」が発行した「中津新聞」の48年6月1日付の記事だ。東京の詩人で、東洋大理事長などを務めた故勝承夫(よしお)氏が執筆した。同新聞は時期は不明だが既に廃刊している。

 記事によると、東京で当時、報知新聞の記者だった勝氏は、東洋大生の池中氏を自宅に下宿させていた。「極めて小粒な選手で、色々恵まれないことが多く気の毒だった。しかし、その日まで、そんな素晴らしい記録を出す選手だとは思わなかった」とある。

 池中氏は35年4月3日、東京・明治神宮外苑競技場を発着点に開かれたマラソン大会で2時間26分44秒の世界記録を出した。

 当日、勝氏の妻は新鮮な卵を食べさせようと、日の出前から近所を訪ね歩いたという。コース途中で応援していた勝氏は、先頭で走ってきた池中氏を「正確なピッチで、まるで小さい白いスクーターのようにさっそうと帰って来た」と表現。ゴールの競技場へタクシーで先回りして「うれしくてすぐ芝生に介抱に行った」と記した。

 しかし、翌年5月に開かれた36年ベルリン五輪代表の最終選考会で池中氏は、レース直前に大病の弟のために中津へ戻り、大量の献血に協力。これが影響し、レースは体調不良で途中棄権した。続く40年の東京五輪では代表に選ばれたが、戦争の影響で五輪自体が開かれなかった。

 戦後は中津へ戻り、高校教師として陸上選手の指導育成に努め、新人発掘のため別大マラソンを創設。同大会は毎回、大分県の選手の1位に「池中杯」を贈っている。

 文庫の会の白土(しらつち)康代代表(69)は「悲劇の人、池中氏のマラソン人生の『栄光の一日』が生き生きと描かれている。五輪を何度も断念したからこそ、後半生は後続の育成に心血を注いだのだろう」と話している。【大島透】

最終更新:6/14(水) 15:00
毎日新聞