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誕生日に天に昇った「沖縄現代史の生き証人」…大田昌秀元知事死去

6/14(水) 8:00配信

ハンギョレ新聞

米軍基地のための土地強制収用代理署名を拒否 知事退任後にも平和運動に全力

 沖縄の米軍基地反対と平和運動の中心人物の一人である大田昌秀元知事が12日、肺炎で亡くなった。大田元知事は誕生日であるこの日、那覇市の病院で家族と知人たちの誕生祝いの歌を聞いた後に目を閉じたと朝日新聞などが伝えた。享年92歳。

 大田氏は沖縄県の知事だった1995年、米軍が沖縄住民の土地を強制的に使えるよう地主の代わりに知事が代理署名をすることを拒否したことで有名だ。これは、近代日本成立後、国家と沖縄が正面から衝突した初めての事件だった。代理署名拒否の前に米兵が沖縄の小学生を拉致し集団性暴行する事件が起きており、島全体が怒りで沸き立った時期だった。結局、橋本龍太郎当時首相が代理署名をして、米軍が土地を強制収容したが、この余波で米国と日本政府は都市の真ん中に位置してきわめて危険な基地として怨念の声が高かった普天間基地の移転に合意した。沖縄の平和運動の元老である新崎盛暉氏は『沖縄、構造的差別と抵抗の現場』(邦題:『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』)で大田氏の代理署名拒否事件の過程が沖縄民衆に多くの教訓と自信を与えたと評価した。

 大田氏は沖縄現代史の生き証人だ。彼の反戦・平和運動の原点は、学生時代に経験した沖縄戦であった。日本で唯一地上戦が展開された沖縄では、米軍と日本軍、住民など少なくとも20万人が亡くなった。1945年3月、沖縄師範学校の学生だった大田氏は「鉄血勤皇隊」に動員され、戦争の残酷さを直接体験した。鉄血勤皇隊は日本軍大本営の発表を各地に伝達する役割を果たしたが、同期生125人のうち生き残った人は大田氏を含めて37人だった。米国留学の後、琉球大の教授であった彼は、1990年に共産党と社会党の推薦を受け革新系知事候補として立候補し、自民党候補を破った。日本で選挙運動や当選の時によく叫ぶ「バンザイ」を「戦争を思い出させる」として拒否する程に戦争経験は彼の一生を貫くキーワードだった。大田氏は知事在職当時、糸満市に平和祈念公園を作り、そこに戦争で犠牲になった20万人の名前を国籍を問わずに刻んだ碑石を立てた。碑石には強制徴用で連れて来られ死亡した朝鮮人の名前もある。

 大田氏は1998年の知事選挙で敗れた後、自費で平和研究所を建てて運営し、集団的自衛権行使容認など日本政府の右傾化に対する批判を続けた。2014年、ハンギョレとのインタビューでも「日本は今憲法を変えて再び戦争する国になろうとしている。若い頃、日本軍は私に手榴弾2つを渡し、死にそうになったら一つは敵に投げ、一つは自爆しろと言った。軍隊は民間人を守らない」と話した。

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:6/14(水) 8:00
ハンギョレ新聞