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世界記録から40年、「王756号」の表と裏 列島を覆った歓声…シャツとパンツの下着姿で祝杯

6/15(木) 16:56配信

夕刊フジ

 【柏英樹の勝負球】

 14日の巨人-ソフトバンク戦(東京ドーム)の5回終了後、王貞治ソフトバンク球団会長(77)が現役時代に巨人で達成した通算本塁打世界記録の40周年記念イベントが行われた。40年前、報知新聞の担当記者として王に密着していた筆者が756号の表と裏を再現する。

 1977年のプロ野球界は開幕前から、あと40本で米大リーグのハンク・アーロンの世界記録755本塁打を抜く巨人・王に話題が集中。各スポーツ紙は番記者を増やし、「756」の数字が紙面をにぎわしていた。

 かくいう筆者も自主トレ、春季キャンプの段階からピッタリマーク。公式戦開幕後は毎朝、東京・目黒区中根の王の自宅を訪れ、厚かましくも王が運転する愛車BMWの助手席に座り、後楽園球場まで乗せてもらった。車内ではフランク・シナトラの名曲「マイウェイ」などを聴きながら、ときには蕎麦店に寄ることもあった。

 周囲の喧騒をよそに本人は「756はあくまで通過点だよ」と冷静。あちこちでファンから「頑張って!」と声が飛ぶと、笑顔で手を振って応えるものの、そのあとポツリと「頑張ってるよ。もっと、これ以上頑張れっていうの?」と漏らすことがあった。誰よりも努力しているという自負がかいま見えた。

 夏休み最後の8月31日。後楽園での大洋(現横浜DeNA)戦の1回1死一塁で、三浦道男から右翼席へ世界タイの通算755号本塁打。くしくも19年前、王が巨人入りを表明したのと同じ日だった。アーロンが23年かかった755までの道のりを、王は19年で追いついた。

 あと1本で世界新。日本中が756狂騒曲に包まれ、揺さぶられた。そして3日後の9月3日。とてつもなく大きなうねりが日本列島を覆った。756号が歴史に刻まれた日だ。

 後楽園でのヤクルト戦。3回1死。鈴木康二朗のカウント3-2からの6球目をとらえ、右翼席へシーズン40号、通算756号を運んだ。

 地鳴りのような歓声の中で、王は「通過点」と言っていたとおり格別派手なしぐさはせず、両手を上げ笑顔でダイヤモンドを回った。後に王は「あのホームランは打ち方がよくない。背中がネコ背のように丸まっている」と世紀の1発にも反省を口にしている。

 次の回、王は長嶋監督の計らいで右翼の守備についた。右翼席のファンへのサービスに、また球場が揺れた。

 その夜はずっと王と一緒にいた。テレビ各局に出演した後、六本木の能登料理店で食事。中根の王家に戻ったときは午前2時を過ぎていた。深夜だというのに700人近いファンが玄関先から公園まで続き、提灯を手にヒーローの凱旋を待ちわびていた。王は玄関の階段に立つと深々と頭を下げ、礼を述べた。ときならぬ歓声と拍手が深夜の住宅街に響いた。

 筆者も家の中に通された。1時過ぎまで待っていたという3人娘はもう寝ていた。祝いの花束で埋まる応接間に、恭子夫人(故人)の両親がシャンパンを用意して待っていた。756騒ぎから解放され、王はシャツとパンツの下着姿になって、シャンパンを飲みながら「もうこんな騒ぎ、こんないい日は2度と来ない」と恭子夫人に笑いかけた。

 午前4時前においとました。帰り際に王は「毎日欠かさず来てくれて大変だったね。ご苦労様でした」と花束をくれた。続いて恭子夫人がもう一束持ってきて「これは奥さまに。奥さまが一番大変だったでしょう」。

 2つの花束を抱え、身内だけの祝宴の輪に入れてもらえた光栄をかみしめた。最高の夜だった。

 つい最近、王さんと話した。「あれから40年もたったんですね」と言うと、「そう、早いねぇ。あれからいろいろあったけど昨日のことのようだ」とほほえんだ。

 ■柏英樹(かしわ・ひでき) 1942年東京都生まれ。青学大時代はラグビー部主将。64年に報知新聞社に入社し、巨人担当などを務めた。ONとは41年間親交がある。99年1月からフリー。著書多数。

最終更新:6/15(木) 17:05
夕刊フジ