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【今こそ知りたい幕末明治】(21)小倉藩処分案と京都の政変

6/16(金) 7:55配信

産経新聞

 □守友隆氏

 文久3(1863)年7月18日、小倉藩士の山名次郎兵衛(豊樹(とよき))は、田野浦(現・北九州市門司区)を占拠する長州藩士に面会し、「小倉藩主、小笠原忠幹(ただよし)公は、攘夷を去る15日に決心された」と伝えた。

 山名は維新後、英彦山神社宮司となった。歌人として知られる一方、今枝(いまえだ)流剣術、宝蔵院流槍術免許皆伝を受けるなど、武人としても優れた人物であった。和歌・国学の素養があったことで尊王攘夷論の盛んな長州藩に比較的共感し、かつ田野浦を占拠する強硬な長州勢に対応できる人物として、山名が派遣されたと考えられる。

 だが長州勢は、これまで長州藩の外国船砲撃を応援しなかった小倉藩は信用できないとし、厳罰を加えることを強く主張した。

 具体的には、藩主小笠原忠幹を「遠慮」処分とし、子息(豊千代丸、のち忠忱(ただのぶ))に3万5千石を与えて同家を相続させるというものであった。小倉藩は表高15万石であるから、大幅な減封であり、「遠慮」は一般的には自邸に閉じこめる軽い罰だが、ここでは隠居謹慎を意味する厳罰であった。

 この処罰を小倉藩が受け入れない場合は、長州藩の望みに任せて、小倉藩に「誅罰」を加えることが、同年8月6日段階で、朝廷内の長州派公家の間で決まっていたようである。

 8月11日、小倉藩小笠原家は外国船打ち払いの勅命に背いたことにより、官職と所領を没収されることが決められた。同藩が謝罪すれば3万石を藩主子息に与え、不服を唱えれば「征罰」を加えるとされた。

 錦小路頼徳と中川宮(のち朝彦(あさひこ)親王)が「小倉追討使」の候補に挙がったが、中川宮が異議を唱えたため朝議が紛糾し、結論が出なかったようである。

 もっとも朝廷からの命令であっても、この小倉藩処分案を実行できたかは分からない。幕末、尊王攘夷論の盛り上がりによって京都の朝廷が存在感を増したとはいえ、所領の分配は幕府の専権事項であった。幕府が諸大名に領知宛行(りょうちあてがい)状を発給し、所領の領有を認めた。天皇領(禁裏御料)ですら、すべて幕府からの進献によるものであった。

 8月18日深夜、事態は急転した。中川宮、京都守護職の松平容保(かたもり)らと公武合体派の公家らが御所に参内、会津・淀・薩摩の諸藩兵が御所の門を固めた。尊王攘夷運動の中心であった長州藩と長州派公家を、朝廷の中枢から排除することを意図したものであった。世に言う「八月十八日の政変」である。三条実美(さねとみ)、錦小路頼徳ら「七卿」と長州藩兵は長州に落ち延びた。「七卿落ち」とも呼ばれる。

 このクーデターにより、小倉処分案は沙汰止みとなった。小倉処分は長州派公家らが立案したことで、孝明天皇や公武合体派の公家らの意思ではなかったからであろう。

 京都の政変の情報が、長州や小倉に伝わるのには数日を要した。8月27日、今日明日にも長州勢が小倉に押し寄せるという噂が大里、小倉で流れた。

 実は長州側にもこの前日、田野浦に小倉藩勢が押し寄せるという噂が立ち、それに備えて下関から田野浦に大勢が渡海した。双方の疑心暗鬼によるものだった。小倉藩大庄屋(おおじょうや)の日記には、「此節田野浦へ参り候長(州)藩士頭ハ高杉晋作と申人也」と記されている。

 また、幕府から長州藩主、毛利慶親(よしちか)(のち敬親(たかちか))宛ての7月付けの沙汰書で、同藩士が小倉藩領に多人数で立ち入り、「不法の所業」に及んでいるということなので、速やかに引き取るようにという命令が出ていた。

 結局、田野浦占拠の長州勢は9月1日から3日にかけて、下関に引き上げた。こうして、小倉藩は同年5月10日の長州藩の攘夷実行から始まった危機を、運良く乗り越えた。だが、あくまで第三者の力によるもので、これ以降小倉藩はさらなる受難の時代に突入していくのだった。

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【プロフィル】守友隆

 もりとも・たかし 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。幕末を中心に北部九州の近世を、交通・情報の観点から調査研究する。

最終更新:6/16(金) 7:55
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