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長崎原爆投下9分前、幻の空襲警報 退避命令はさく裂直後 前日、市民総退避は検討されていた

6/17(土) 6:01配信

西日本新聞

 長崎原爆投下直前の1945年8月9日午前10時53分、原爆搭載機の動向を察知した日本軍は空襲警報を出したが、長崎には届かなかった。記録上だけの警報だったとみられる。投下目標が小倉から長崎に変更されたことを把握した後にはラジオで退避命令を呼び掛けたが、それも原爆がさく裂した直後。2度出された“警告”は市民避難には結び付かず幻に終わった。

⇒【画像】知事が、市民総避難のための会議を開いた防空壕の内部。直後に原爆が投下された

 戦時下の主な警報伝達としては、軍管区司令部からのラジオ放送、自治体によるサイレン、各家庭への電話連絡などがあった。いくつかの伝達方法を併用し、市民の情報共有を徹底していたとされる。他にも主要な軍需工場には軍との直通電話があり、警報などの情報が直接伝わる仕組みができていたという。

「原爆投下まで避難の指示はなかった」

 旧防衛庁が編集した「本土防空作戦」(1968年発刊)によると、8月9日の記述で、国東半島から北九州地区に向かう爆撃機B29を2機発見し、西部軍管区司令部が午前10時53分に空襲警報を発令。「(6日の)広島への原子爆弾投下の状況から原爆搭載機であろうと判断された」とある。

 しかし-。9分後に被爆地となる長崎にはこの警報は出されなかった。爆心地から3・3キロの旧制長崎中の生徒だった深堀譲治さん(86)は、動員学徒として校内の軍需工場にいた。「何となく飛行機の音のような音がしておかしいなとは感じたが、原爆投下まで避難の指示はなかった」と振り返る。

「投下間際になっても緊急事態だとは感じなかった」

 同1・3キロの自宅にいた被爆者の丸田和男さん(85)によると、敵機が島原半島上空を飛行していることを知らせるラジオ放送を職場や家庭で耳にした被爆者はいるが「直前に市民に空襲警報が出された記憶はない。投下間際になっても緊急事態だとは感じなかった」と語る。

 8月9日の記録にはまだ不明な点も多いが、県や市に残る記録では午前7時48分に警戒警報が出た後、同7時50分に空襲警報に切り替わり、同8時半には解除になっている。その後は原爆投下までの間に空襲警報は出されていないことになっている。解除後、ほとんどの市民は避難の必要性を感じなかったとみられる。

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最終更新:6/17(土) 15:31
西日本新聞