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【静岡古城をゆく】花蔵の乱と義元の家督(藤枝市)

6/18(日) 7:55配信

産経新聞

 ■最終決戦場となった花倉城

 駿河国の今川氏親は、遠江国を完全制圧した9年後の大永6(1526)年6月に没し、跡を継いだ氏輝は病弱のため母の寿桂尼が“女戦国大名”として政治を執った。「おんな城主直虎」の少し前である。

 天文5(1536)年3月、氏親の長子・氏輝は24歳の若さで亡くなり、同時に弟の彦五郎までが謎の死を遂げた。それを契機に栴岳承芳(せんがく・しょうほう)(義元)と庶兄の玄広恵探(げんこう・えたん)(花蔵殿)との間で家督争いが勃発した。先学では恵探の反乱と位置付け「花蔵の乱」という。

 今川一門の内乱であったがミステリーなところが多い。張本人の義元とクーデター説もある太原雪斎の動きが不明で、義元生母の寿桂尼が対立する恵探と同心したり、『妙法寺記』に小田原の北条軍は恵探派を「責コロシ」とある。これを信用すれば北条氏は駿河国へ軍事介入したことで、義元はのちに「乱入」と評価している。勝利した義元は政策の大転換を実施した。

 今川、北条両氏は北条早雲の代から一門衆の仲で相互に軍事・政治的支援をしてきたが、突然、敵対する甲斐国の武田氏と同盟し、さらに義元は信玄の姉を正室としたために、北条氏との間で「河東一乱」(富士川以東の富士郡と駿東郡)という長期にわたる戦いになった。この一乱期の井伊氏当主は直平であったが、義元派に加担したかは史資料も伝えず不明である。

 花蔵の乱の主戦場はやはり駿府(今川氏館か)での戦いであったが、恵探派率いる福島氏は打ち負けて久能寺(静岡市駿河区)へ逃れ、結果的には本拠の花倉へ退き花倉城が最終決戦場となった。現在の遺構はこの時のもので、中央の二の曲輪・堀切は大規模であるが、本城曲輪は自然地形で、戦いに間に合わなかった状況を伝えている。(静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:6/18(日) 7:55
産経新聞