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【かながわ美の手帳】川崎市岡本太郎美術館「岡本太郎×建築」展

6/18(日) 7:55配信

産経新聞

 ■時代に求められた奇想 交友で広がる作品世界 

 奇想の芸術家、岡本太郎が残した作品の中でも建築家とコラボレーションした作品などに絞った「岡本太郎×建築」展が川崎市岡本太郎美術館で開かれている。画家、美術家にとどまらず、時代に求められ、作品の世界が広がっていった岡本太郎。その偉業を再確認する貴重な機会でもある。

 ◆年代別に追って

 敗戦当時の日本建築は、一面の焼け野原のなかで資材や資金が枯渇していたが、朝鮮戦争の特需で昭和25年に息を吹き返し始め、戦前からのモダニズム建築家が活躍する機会ともなった。なかでも岡本のパリ留学時代から親交があり、県立近代美術館を設計した建築家の坂倉準三は特筆すべき存在だ。その坂倉から依頼を受けた岡本は27年、東京・日本橋の地下通路の壁画「創生」を制作する。

 30年以降になると、「芸術の綜合(そうごう)化」をキーワードに建築家とデザイナー、芸術家が活発に交流する時代となり、岡本の交友関係は広がっていく。もとより岡本は、美術界でのみ活躍した人物ではなかった。

 岡本と仕事を共にした建築家は多く、坂倉以外にも丹下健三、アントニン・レーモンド(チェコ)、磯崎新と本展では作品模型や写真、資料を通して年代別に追っている。

 画家、美術家という枠では収まり切れなかった岡本のパワーは当時、時代の先端を行く建築家たちとのコラボで生まれ、ときに建築物を飛び越え、建築物をしのいでしまう危険性をもっていた。それが、会場正面の「太陽の塔」(模型)だろう。

 45年に開催された日本万国博覧会のテーマ「人類の進歩と調和」の下、丹下が設計した、お祭り広場の巨大な大屋根を突き破った「太陽の塔」に人々は仰天した。建築家の中でも賛否はさまざまだったが、藤原徹平は「大衆の共振を引き起こした人類史上の大事件でもあった」と当時の状況を解説する。岡本は、「太陽の塔」について「(万博)会場のおもちゃ箱をひっくり返したような雰囲気に強烈な筋を通し、緊張感を与える」ものだと書き残している。

 ◆陶板に行き着く

 「太陽の塔」以前にも岡本は、そのパワーを東京・丸の内の旧東京都庁でも発揮した。それが、陶板壁画「日の壁」(31年設置)などだ。戦災復興の途上、立ち上がる都庁舎の造形の新しさに刺激を受けて制作に取りかかり、「月の壁」や「赤」「緑」も含め7作品を制作した。

 同館学芸員の佐藤玲子は「旧都庁舎の建物の造形に負けない耐久性と強度をもつ素材としてたどり着いたのが陶板で、岡本は、さまざまな試行錯誤を経て最終的に行き着いたようです」と解説する。

 さらに丹下が設計した東京オリンピックの国立屋内総合競技場(現国立代々木競技場)のロビーに設置された壁画「手」「走る」「眼」「競う」「足」も岡本が制作した。アントニン・レーモンド設計の「デッブス邸茶室」で、岡本は浴室のバスタブと壁画の構成を担当している。

 岡本は、建築物を構成する壁画や塔をつくるだけでなく、雑誌『総合』(32年6月)で「ぼくらの都市計画」を発表している。皇居を中心に池袋、新宿、渋谷、品川、日暮里などを円環状の都市とし、その周囲に低層住宅群を、郊外には工場を配置。そして海底電車で東京・銀座に20分で到着し、ビーチやヨットハーバー、野球場や競技場などの施設がある人工島「いこい島」も置いた。

 岡本が現在の東京・台場にも似た首都の未来図を描いていたのかと思うと、岡本の底知れぬ創造力を思い知らされる。佐藤は「建築家が多くの都市計画案を出す中、岡本はアーティストならではの自由な発想で東京の未来を描いていた」と話している。=敬称略(柏崎幸三)

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 「『岡本太郎×建築』展-衝突と協同のダイナミズム-」は、川崎市岡本太郎美術館(川崎市多摩区枡形7の1の5)で7月2日まで。午前9時半から午後5時(入館は午後4時半まで)。観覧料は一般1千円ほか。問い合わせは同館((電)044・900・9898)。

最終更新:6/18(日) 7:55
産経新聞