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「両親の分まで生きる」=戦災孤児、辺野古抗議に参加―沖縄戦から72年

6/18(日) 14:21配信

時事通信

 多数の住民が犠牲となった太平洋戦争末期の沖縄戦の終結から、今月23日で72年を迎える。

〔写真特集〕沖縄戦

 両親を亡くし、戦災孤児となった沖縄県浦添市の佐々木弘子さん(76)は、戸籍の焼失により自分の正確な生年月日や出生地を知らない。「『両親の分まで』と思って生きてきた」と話す佐々木さんは、戦争に翻弄(ほんろう)された経験を胸に、3年前から名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前での抗議活動に参加を続けている。

 米軍は1945年4月1日、沖縄本島へ上陸。戦後の琉球政府の調査では、小中学生4050人が両親を亡くしたとされる。

 4歳だった佐々木さんに戦争の記憶はなく、両親の顔も覚えていない。父親は防衛隊に加わり行方不明となり、母親は避難中に亡くなった。写真で確認できるのも母親の姿だけだ。佐々木さんは「もっと生きたかっただろうに」と悔しさをにじませる。

 終戦後、現在の同県名護市にあった収容所で祖父母らと数カ月間過ごした。約13万人が集められたとされる同市の収容所は、栄養失調やマラリアがまん延する劣悪な環境で、祖母は間もなく亡くなった。遺体はいったん収容所内に埋葬し、その後、那覇市内の墓に埋め直した。

 収容所を出た後は、祖父が始めた豆腐事業を手伝いながら生活を続けた。つらい時、かばってくれる親はいない。親から小遣いやお年玉をもらう友人を見るたびに、寂しさが込み上げた。

 沖縄の基地問題に関するシンポジウムに参加したことを契機に、「基地はなくなってほしい」という気持ちが強まり、活動が始まった2014年から辺野古での抗議に参加。「親にもっと甘えたかった」と振り返る佐々木さんは、「自分の孫に同じ思いをさせたくない」との思いから、今も座り込みを続けている。 

最終更新:6/18(日) 15:40
時事通信

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