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ライバルを引き離した“西武黄金列車”と箱根山12年戦争 堤康次郎(下)

7/21(金) 15:40配信 有料

THE PAGE

 堤康次郎はさまざまな事業を始めるもののことごとく失敗し、土地投資でようやく日の目を見ることとなります。実業家と政治家の二足のわらじを履き、やがては開発事業、私鉄事業と手を広げていきました。

 当時、首都圏の私鉄は、東急の五島慶太、東武の根津嘉一郎、そして西武の堤康次郎の三人がしのぎを削っていました。とくに同じく政治家でもあった五島とはよく比較されることがありました。しかし、戦時中、五島に解決できなかった難題を堤が果敢に挑んで成功させた一件があったのです。事業家としても、政治家としても名を上げた「西武黄金列車」と五島と因縁の箱根山12年戦争について、鍋島高明さんが解説します。


  政治家としての評価はイマイチだったのか? “西武黄金列車”でライバルを引き離す

  政治家、堤康次郎の活動について、『雷帝堤康次郎』の著者、富沢有為男の評価は低い。

 「あれだけの人間的スケールを持ちながら政治家としては、どっちかといえば孤立派冷飯組で戦後、衆院議長になったのが最高の記録である。せいぜい議会乱闘騒ぎの折、やっさ、もっさ、人の背中から背中をかつぎ回されて、その悲愴な表情をテレビに写し出された程度で終わった」

 さて、土地投資で愁眉を開いた堤が鉄道事業に乗り出すのが1928(昭和3)年で、多摩湖鉄道(JR国分寺駅から東村山まで)の創立、武蔵野鉄道(池袋から吾野まで)の買収で鉄道事業家として第一歩を印した。経営不振に陥っていた武蔵野鉄道の実権を握った。

 武蔵野鉄道と平行して西武鉄道がJR高田馬場駅から埼玉県川越市まで走っていたが、この2社を合併して西武鉄道が完成する。1945(昭和20)年9月のことだ。

 首都圏の私鉄は戦前、東急の五島慶太、東武の根津嘉一郎、西武の堤康次郎が鼎立してしのぎを削っていたが、堤が自慢するのは“黄金列車”を走らせたことだ。第2次大戦末期の1944(昭和19)年、東京都の清掃事業は破綻に瀕していた。ガゾリンは欠乏する、男子は赤紙1枚で招集され、戦地へ行く。その結果はどうなるか。どの家庭でも便所の壺は満タン状態になる。一家の主人は勤め先で用を足すよう奥方から申し渡される。だから会社のトイレは行列ができる始末だった。東条内閣が東急電鉄の五島慶太を運輸大臣に抜擢したのはこの糞尿問題を解決させるためであったという。本文:2,256文字 この記事の続きをお読みいただくには、THE PAGE プラスの購入が必要です。

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最終更新:7/27(木) 6:10
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