ここから本文です

【二十歳のころ 的場文男(1)】夢はナンバーワン「富士山になろう」

6/20(火) 15:00配信

サンケイスポーツ

 デビューしたころは、7000勝も挙げられるとは思ってもみませんでした。17歳でデビューして43年。これも関係者やファンのみなさんのおかげです。本当に感謝しています。

 僕の実家は福岡県の大川市で7人きょうだいの四男。男では一番年下でした。父は宮崎で騎兵隊に所属していて、終戦後、馬を1頭だけ連れて帰り、その馬を使って木材を運ぶ商売をしていました。父と一番上の兄・孝治が一緒になって会社を大きくしたのですが、その兄が「次男までは守れる。でも、おまえらはここに残っても(できる仕事は)運転手までだぞ」と、三男の信弘と僕に言ったんです。父が馬主だったこともあり、信弘は佐賀競馬場で、僕は大井競馬場でお世話になることになりました。13歳のころです。

 所属したのは、小暮嘉久厩舎でした。小暮厩舎というのは、数々の名ジョッキーを送り出した大井の名門です。小暮先生のもとでは“いい苦労”をさせてもらいましたね。正直なところ、お金はあまりもらえなくて、当時の月給は500円。乗馬ズボンも買えないくらいで、阪本昭徳調教師のお下がりをもらって乗っていたんですよ。当時は調教でも乗馬ズボンを着用しなければならない時代。なかにはお坊ちゃんもいたけど、僕なんか雑草でしたからね。本当に苦労しました。

 でも、先生の教え方は本当にすばらしかったです。例えば、馬に乗るときに鐙(あぶみ)にティッシュを挟ませるんです。それを破かないように乗れって言われるんですね。これは大変でした。くるぶしでしっかり挟むことが重要で、下半身の強さが必要でした。

 人間も赤ん坊をおんぶして走ると、ふらふらして走りづらいじゃないですか。馬は人間をおんぶして走っているようなものなので、人間がふらふらしていると走りづらくなります。だから下半身で馬をがっちりと挟み込めるように、一生懸命に足腰を鍛えました。とにかく「ナンバーワンになりたい」。その一心で、競馬場や近くの八潮公園の周りを走り込みましたね。

 今はマンションが建って見えなくなってしまいましたが、昔は大井競馬場の2コーナーを回ったあたりで、正面に富士山が見えたんです。毎日、それをながめて、下積み時代の僕は富士山になろうと思っていました。東京から見ると、富士山は左(静岡県側)のほうからググーッと登り詰めて、トップ(頂上)が長く、そして山梨のほうへ、じわじわと下っていく…。「あれを目指そう。人生はこうでないといけない」と思っていました。今はトップの時期が終わって、じわじわと下りているところですが、大井で21年間もリーディングジョッキーを続けられたのだから、あのころに掲げた目標は達成できたのかな、と思います。 (あすに続く)