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50年前の文通からはじまった恋の物語

6/21(水) 21:02配信

STORYS.JP

--- Yahoo!ニュース・ライフカテゴリに配信するメディアが多数ある中で、私たちのメディアからは、世の人々の暮らしをまた違った切り口で色鮮やかに紐解くために、一個人の人生にスポットを当てたい。---

本日ご紹介するのは、50年前、高校生だった男性が文通で知り合った女性と育んだ、恋の物語だ。

夏が近づき、異性との出会いを意識しはじめるこの頃に
このような出会いの形もあるのかと、知ってもらえれば幸いである。
以下、同男性の手記をご紹介する。

「渡り鳥 ―50年前の文通に始まる2人の心の旅のstory―」

 あれはもう50年前、私が信州の田舎の高校に通い始めた1年生の6月頃だった。当時、「高一コース」という高校生向きの月刊学習雑誌があり毎月買って読んでいたが、その中に「文通コーナー」というようなものがあった。高校は共学だったが女子は極めて少なく、私のクラスは男子のみだった。高校生活にも慣れ始め社会への関心も出てきた頃、日本の他の土地に住む同じ年齢の高校生はどんなことを考え、どんなことをしているのか?・・・そんなことを何となく知りたくなっていたので、その雑誌の「文通コーナー」に載っている全国の文通希望者の名前を男女関係なく、目をつむってどちらにしようかな?と何度か指であちらこちらと押してみた。最後に一人の名前で指が止まった。それは、遠い九州の佐賀県に住む女生徒だった。あれ?女子だ・・・とまどったが、通う高校のクラスは男子のみだったので、知らない世界が広がるかなと思って文通希望の文面を手書きしたハガキを出してみた。その時、何とハガキに書いたかは覚えていないが、汚い字だったに違いない。

 それから返信はなく、ハガキのことを忘れかけていた半年くらい経った頃だったと思う。ある日、学校から帰宅すると、母が私に郵便が来ているよと言う。見ると佐賀県の住所で見知らぬ名前の女性からの封書だった。「突然、知らない人からの手紙で驚いていると思います。すみません。あなたはもう忘れているかもしれませんが、私は前にあなたが出したハガキをクラスの友人からもらった者です。遅くなりましたが、よろしければ私と文通してください」というような内容だった。そっか、あの時のハガキの返事が来たのだと驚き、嬉しくもあり、すぐに返事の手紙を出した。おっちょこちょいの私は、差出人の名前にある「知」を「和」と見違えて宛名書きしてしまい、さっそく次の手紙で名前が違うとしたためられてしまった。私の下手な汚い字の手紙にもかかわらず、いつも綺麗な字の手紙を返してもらい、こうして2人の文通が始まった。

 私の出したハガキをもらった生徒は、全国から10人ほどの文通希望のハガキがあり、その中から気に入った一人と文通することを決め、残りのハガキを学校のクラスの女生徒達に見せて、それぞれ1枚を選んでもらって振り分けたとのこと。最後に2枚が残り、彼女と親友で選ぶことになったが、ハガキの文面を読んだ彼女が私のハガキを選んだらしい。しかし、すぐに返事を書く気もなく、そのハガキは捨てようかとも思ったが、何となく自宅の自分の机の引き出しに入れてしまっておいたとのこと。やがて彼女もそのことを忘れて月日は経ち、ある日、机の引き出しの中の何かを探していた時、奥にあったそのハガキを見つけ、いつまでも返事をしてないので待っていたら悪いと思い、思い切って手紙を出したのだという。彼女もまた、私から返事が来て驚いたようだ。私は開業医の次男で、彼女は炭鉱職員の長女だった。

 女子と付き合ったこともなく、男子と付き合ったこともない田舎者同士の2人の文通は、たぶん特別のドラマチックな話も、恋愛じみた文面もない平凡な高校生活の話ばかりだったと思う。その頃、私は社会の出来事や哲学などに関心が出てきていたので、硬い内容の文章をよく書いていたようにも思う。男ばかりの高校生活なので、手紙だけだったが同学年の女生徒の話は興味深く、またなるほどと感心することもあった。2年生になり、私は生徒会活動をするようになり、秋からは生徒会長にもなったので、ちょっと忙しくなり、文通の頻度は減ってしまったが、数か月に一度くらいの文通が止まることはなかった。彼女も高校の友達仲間と一緒に地域の子供たちの育成のボランティア活動などで張り切っていたようだ。やがて3年生になり受験の季節を迎え、さらに文通の回数は減っていったように思う。彼女が高校卒業後にどこのどの大学を受験し、どんな仕事を目指していたのかは手紙に書かれていなかったので知らなかった。私は、その頃さらに哲学に興味を深めていたので哲学者になりたいと思い、3年生からクラスは文系コースを担任に希望したが、それを知った親から医師になってくれと強く言われて、親孝行をしようと仕方なく理系コースに変更した。本格的な受験勉強生活となり、2人の手紙のやりとりはさらに減ってしまった。

 その頃、全国の大学では学生運動・学園紛争が盛んになり、驚くことに東大入試が中止になってしまった。それが受験地図に与えた影響は大きく、希望した大学医学部の入試偏差値はどこも高くなってしまった。それが言い訳にはならないが、受けたいくつかの大学入試に失敗し、高校卒業後は東京で予備校通いをすることになった。受験が終わって、しばらくして入試に落ちたことを彼女に手紙で知らせた。返信があり、岐阜にある短大に受かり、幼稚園の先生を目指すことを知った。すでに佐賀の実家を離れ、岐阜で寮生活を始めていた。実は京都にある四年制大学が第一志望であったが、受験日に体調不良で試験に落ちてしまいとても悲しんだが、親に浪人の負担をかけるわけにいかず、遠い短大の幼児教育学科に入学したことも知った。そこは、昼夜2交替で働きながら学ぶというシステムの短大3部で、大学関連の会社で働き授業を受けて卒業まで3年かかる。彼女は親からの経済的援助を受けずに仕事しながら自活して幼稚園教諭を目指す道を選んだのであった。仕事と授業の繰り返しの毎日は厳しいものがあったことを後に知った。


 初めての東京での1人生活は、親戚の叔父夫婦が管理人をしている古いアパート生活で始まった。先に東京に来ていた兄も同じアパートにいた。部屋にエアコンもトイレも風呂もなく、共同のトイレと洗濯場があった。風呂は銭湯通いである。入口の戸は閉まりが悪くて隙間だらけ。机の代わりに田舎から荷物を送ったミカン箱を机代わりにして勉強をする生活はなんだか楽しかった。そして、予備校通いの受験勉強よりも好きな哲学書を読んだり、学園紛争に揺れる大学を見て回ったりして興味津々の日々だった。その当時、携帯電話はなく、部屋に電話もひけないアパートだったので、岐阜にいる彼女とは、主に夕方に、アパートの管理人室の電話と、彼女の寮の管理人室の電話の呼び出しで話を交わしていた。寮に電話すると、管理人が彼女を呼ぶ声と、電話に向かってくる足音が聞こえて来たのを今もよく覚えている。田舎の実家にいる頃とは違って電話が出来るようになり、文通をすることはなくなっていた。私が呑気に浪人生活をしていた頃、彼女は多忙な仕事に明け暮れながら、目標に向かって一生懸命に学生生活に励んでいたのである。近くの大学からは学生運動の大きなアジテーションの声がスピーカーから聞こえて来て胸躍らせたり、学生のデモの中に高校の同級生を見つけたりして驚いたり、あれこれ好きなことに夢中になっている間にあっという間に季節は過ぎていった。その翌年、私はまた医学部受験に失敗してまた浪人することになってしまった。合格を強く応援していてくれた彼女に、また暗い結果を話すことになり、どんなに彼女は悲しく思ったことだろう。私は気持ちを切り替えるため、浪人2年目の4月からは、予備校の学生課で見つけた板橋区にある個人経営の格安の2食付きの学生寮に入ることにした。


 そこは70人以上いると思われる大学生や予備校生などが住む変わった学生寮で、部屋は4畳弱の小部屋だった。寮に風呂はあったが、利用者が多くて混むので、歩いて20分ほどの銭湯に通った。5月頃に、寮の入口でばったり高校の同級生に出会った。何とその寮に前から入っているというので驚く。都内の大学に通っていた。高校時代は特別の友達というわけではなかったが、話をしていると気が合って、それからよく夜になると彼の部屋を訪ねて語り合うことになった。思わぬところで友人に会えて、単調な浪人生活にも少しの潤いが出来たと思う。

 初夏になり、あまり連絡をとっていなかった岐阜にいる彼女が、東京の親戚に会いに来るとの知らせがあった。それは予想もしなかった千載一遇のチャンスだった。時間がとれるなら会いたいとお互いが思ったのだろう。綿密な打ち合わせをして、新幹線で東京駅に着いたら駅で待ち合わせをすることにしていたが、東京駅などめったに行ったことがないので既に東京駅着の時間になっても待ち合わせの場所がわからなくなり、会わずに終わってしまいそうだった。これは申し訳ないと、駅の窓口の係に頼んで丸の内出口前で待っていますと放送してもらった。果たして放送を聞いているだろうか?顔もそれまで1枚の写真でしか見ていない。待つこと10分くらいして、それらしい女性がバッグを持ってやって来た。彼女もめったに東京に来たことがなくて場所がわからなかったのだ。初めまして・・・それは文通を始めてから5年目に初めて2人が会った日だった。初めてのデートは、皇居前広場の散歩。初めての女生徒のデートは二人とも初々しかったが、それまでにお互いのことはだいたいわかっていたので初めて会った気がせず、よく笑って話もできた。初めての一緒の食事は、洒落たレストランは思いつかずラーメン屋だったが楽しい時間だった。

 彼女が岐阜に帰ってからは会うことはなく、私は受験勉強に、彼女は仕事と勉学に励んであっという間に翌年になってしまった。そして、また親や彼女の期待に反して3度目の医学部不合格になってしまった。4月からは、親にこれ以上心配と負担をいつまでもかけられないと医学部をあきらめて滑り止めに受けた大学の哲学系学部に合格したので入学して通学したが、夏の頃一年奮起してもう一度医師を目指して人の役に立ちたいと思うようになり、その大学を中退して心機一転9月から気分転換に京都の予備校に通うことにした。


 京都は北区の上賀茂神社の近くのアパートの部屋を借りて新生活を始めた。予備校に行くには、上賀茂神社のうっそうとした背の高い木立の中を歩いてバス停に向かう。予備校からの帰りは、神社の林の中にあるベンチで昼寝をよくしたように思う。京都市内には大学が多く、街の通りを歩くと多くの大学生達とすれ違った。来年は必ず自分も大学に入るんだと密かに思いながら歩いたものであった。

 京都の秋は美しい。2度ほど彼女を京都に呼んで、お寺や公園でデートをしたことがある。

 苔寺の通称で知られる紅葉の西芳寺の境内を一緒に話しながら歩いている時、突然彼女は歩みを止めて「今、私は生きているっていう実感がする」とつぶやいたのをよく覚えている。鴨川のほとりにある京都市立植物園を訪れた時は、澄んだ秋空で、中にある公園の白やピンクのコスモスの花が綺麗だったね。そう、あの沢山のコスモスの前で撮った笑顔の彼女の写真は、それからも大事にいつも見ていた。

その秋の暮れに岐阜の短大の大学祭を訪ねたが、その日彼女は実家に急用で帰って不在だった。代わりに彼女の数人の友人が大学内を案内してくれた。初めて見る彼女が住んでいる町、初めて見る働きながら懸命に学んでいる大学のキャンパス・・・私は、涙が熱く沸いてくる思いで歩いて回った。そして、来年こその思いを胸に京都に戻ったのであった。


 翌年になり、彼女は難関の都立保育園の採用試験に合格して上京した。そして、私はとある大学の医学部に合格した。先に都内の保育園の職員寮に入って研修を受けていた彼女に合格の電話を入れた時、彼女はどんなに泣いて喜んでくれたことか。親にもやっと長い間の心配と苦労の恩返しが出来たと嬉しかった。そうそう、寮の同僚と合格祝いの食事会を開いてくれたね。私は女性ばかりの中で緊張してほとんどしゃべれず、申し訳ない思いをさせてしまった。

 その4月から、私は東京郊外にある学生寮に入り、毎日朝から夕方まで大学で講義を受ける生活が始まった。医学部の授業は講義や実験が月曜から土曜までぎっしりと詰まっていて、遊ぶ暇はない。寮に帰ってからも、毎日夜の2時頃まで勉強に明け暮れていた。彼女も新しい職場の仕事が始まり、2人が会うのは時折の週末くらいだったが、お互いに近くにいるのは心の安らぎだった。私はその学生寮は1年半ほどしてから出て、大学の近くのアパートに移った。医学部の6年間は長く、毎夜布団に入ると天井の板目の数をゆっくりと端から数えて、まだ2年目かと思ってため息をついたものである。その頃、ちょっとしたことで彼女が怒り、もう付き合うのをやめようとしたことがあった気がする。しかし、間もなくこちらから謝りの手紙を書いて出し、また付き合うようになった。

 そうこうしている内に、前よりも自由に2人で会う時間が増えて3年目になり、私は彼女との結婚を考えるようになった。卒業まではまだ数年かかるし、学生結婚でもいいと思えた。ある日のデートでプロポーズした。「私でいいの?」と彼女は驚いた様子だったが、「お願いします」と言ってもらえた。そこで、その夏に田舎に帰った時に両親に彼女との結婚の話を出した。高校の頃から文通をしていることはよく知っているはずだったが、母に私が学生であることとお互いの家柄の違いを持ち出されて強く反対されたので、私は涙を流して「結婚は純粋に2人の愛情と信頼だけによってなされるものであって、それ以外のことは関係ないことだ。大学の勉強も誰よりも一生懸命にしている。」と何度も訴えてやっと認めてもらった。そのことは今も彼女に話していない。


 さて、こうして私は大学3年生で学生結婚をすることになった。結婚は自分達だけの力だけで始めたいと思ったが、学生で貯金もないので、まずアルバイトをして結婚指輪を買うことにした。何かの広告で家庭教師のアルバイト募集を見つけた。そこは採用試験があり、数学と英語だった。高校2年生レベルの筆記試験だったが、無事に採用されて夏頃から大学の授業を終えた夜に中学3年生の男生徒の家庭教師を始めた。翌年、その生徒は無事に高校受験に合格した。さらに、建築現場のアルバイトもした。素人の自分がマンションの新築作業に携わったので、ちゃんと作業が出来ていたのか今でも心配である。ほかに、一般企業の運動会の会場作りのバイトなどもして結婚式資金を一人コツコツと集めたのである。彼女は都立保育園を退職して、結婚に備えて私のいる近くの私立幼稚園に就職した。


 私たちは、出来るだけ親に負担をかけないように手作りの結婚式を目指した。式場は、ホテルではなく市内の一般会館の簡素な結婚式場を予約した。招待状は結婚式場などに依頼せず、自分で手作りした。今のような便利なパソコンもプリンターもない時代で、当時はガリ版印刷というものがあった。謄写版という印刷手法の通称である。中学の時に、クラスの文集作成係をしていた時に自分用にワンセット買って保存していた。ヤスリ版の上に鉛筆で下書きをしたロウ原紙をのせ、鉄筆でガリガリと文字を書き、それを刷り台側に乗せてインクをつけたローラーを刷り台側に転がして印刷する。もともと悪書であるから、出来るだけ丁寧に書いたつもりでも、鉄筆でガリガリ書くのはしづらく、出来上がった招待状は恥ずかしさ満載の文字だったが、心を込めて作った招待状は明るく輝いて見えた。仲人は大学の親しくしていたドイツ語の教授ご夫婦にお願いした。式の司会は中学時代の親友にお願いした。招待客は、双方の家族・親族と、私の友人数人と、彼女の職場関係者数人くらいだったように思う。式では、アルバイトで買った小さな指輪を交換して、誓いの言葉を神主の前で述べて無事に終了。そして、友人達の祝いの言葉、ちょっとした歌と演芸・・・ささやかな披露宴だったが楽しく嬉しかった。彼女は、花嫁の例にもれず、最後の両親へのお礼の手紙を読みながら泣いていた。彼女の両親も泣いていた。この時間に至るまでにどれだけ心配していたことだろう。結婚したのは、文通を始めてから10年目の春まだ浅い時期だった。


 新婚旅行は2人でハワイでもグアムでもなく、彼女が両親と一緒に旅行することはもうあまりないだろうと思って彼女の両親と一緒に伊勢神社、琵琶湖、京都などを巡る旅行にした。宿泊先も電車の切符の予約も全部私がした。少しも豪華でない格安ホテルと旅館ばかりで、後になって彼女に恨まれていたことを知る。申し訳ない新婚の始まりだった。新しい住居は、大学に通学しやすい場所の小さな新築のアパートの2LDKを借りた。もう銭湯に行く必要はなかった。そして、私は勉学に励み、無事に1回で医師国家試験に合格した。卒業した大学病院に研修医として就職して、ひたすら仕事に励んだ。


 やがて、長男が誕生し、住まいが狭くなったので、思い切って小さな建て売り住宅を購入して長いローン返済生活も始まった。さらに次男が誕生。その頃、私は医学の研究目的でアメリカに留学することになった。初めての海外旅行は12月の冬だった。留学先はアメリカの北にある冬は極寒のミネソタ州だったので、どんなに寒いだろうと思って家族全員着られるだけの厚着をして飛行機に乗り込んだら、そこは空調の効いた適度に暖かい機内で、みんな到着までの10時間以上を汗びっしょりかいてぐったりしていた。次男はずっと泣いていて、彼女は次男を抱いてずっと機内のトイレの前で立っていた。初めてのアメリカに到着して税関をトラブルはあったが無事に通過してトイレに入った時に、次男が後追いしてきてあっという間に人ごみにまぎれて見えなくなった。「しまった!もう誘拐されたか!」と一瞬で絶望感に襲われたが、彼女のいる所に戻ったら次男が笑って立っていた。そんなこんなで緊張していた入国だったが、大学の医局の先輩が既に留学しているロスアンジェルスのお宅に1泊させてもらってやっと一休み。そこから、さらに飛行機に乗って目的の地へ。観光とは違い道案内人はいない。発音の悪い英語を苦労して駆使して、なんとか最終の飛行場に着いた。もう時刻は暗い夕方で、あたりは真っ白な雪が積もったそこには、留学先の大学研究所に数年前から入っている知人夫婦が車で迎えに来てくれて、日本で予約していたモーテルまで連れていってくれた。その知人は大学の同級生のいとこで、留学の数か月前に同じ留学先であることが偶然わかり連絡をとれるようになったのである。留学先の留学者の担当から事前に聞いて賃借を予約していた現地のアパートは、静かな郊外にある2階建ての古いアパートだった。冬はマイナス30℃にもなるところなので、全室セントラルヒーティングシステムが装備されていた。台所の後ろのスペースに大きなボイラーがあって火をあげて燃えて、その熱を壁の間に流して部屋を暖める仕組みである。室内にはエアコンもストーブもなかったが、寒い夜でも室内も会談もセーターを脱いでも暖かかった。しかし、2年目の冬の夜に市内が停電した時はセントラルヒーティングが止まり、毛布や布団にくるまっていたが凍死するのではと思うほど寒かった。


 研究はラットを使った実験研究で、毎朝5時半には起きて、急いでアパートの近くのバス停から朝一番のバスに乗って研究棟のそばまで行き、まず最上階にある動物飼育室に入る。実験に使っているラットを1匹ケージに入れて、まだ誰も来ていない実験室に行き、そのまま実験を始める。末梢神経のエネルギー代謝に関する研究を一人でしていた。この実験には永い時間を要するが、途中でラットが死んでしまうと、その日の実験は終了してしまう。昼食は研究室のボス(教授)と同僚のいろいろな国からの留学生達と一緒にカフェテリアでランチを話しながらとるのだが、毎回ボスから「おい、今日はうまくいったか?」と聞かれるたびに「ダメでした」と答え続ける1年以上が続いた。それからだんだん実験方法のコツがわかって来て、実験時間が長くなって終わるのが夜の11時や12時過ぎになることが多くなり、夕方の実験の途中で一度アパートに帰り、簡単な夕食を急いで家族と一緒に食べてから自分の車で研究棟に戻り、誰もいなくなった深夜に帰宅して、また朝毎朝5時半には起きて研究に向かうという生活をさらに2年間ほど続けることになる。冬の深夜に帰る時には、車のエンジンが凍ってしばらく帰れないこともしばしばあった。土日の研究室は休みだが、動物飼育室の自分のラットの餌の特別な管理が必要なので、土日も一度は研究棟に出かけなければならない。


 そんな毎日の生活は、彼女にどれだけ大きな子育ての負担をかけていただろう。土日は出来るだけ時間を作って、公園に出かけたり、近くの観光地や動物園に出かけたりして家族だけの濃密な日々を過ごすように努めた。

 失敗続きの研究を始めてから1年半になる頃に、永い間求めていた研究成果が出てきた。それをボスに報告すると大変喜んでくれた。研究結果をまとめて学会で研究発表も出来るようになり、研究論文も国際的な専門誌に複数採用されて掲載することが出来た。それは、その分野で世界最初の研究成果であった。やっと実験に余裕が出てきたので休暇を作り、新婚旅行のお詫びも兼ねて遠くイエロー・ストーン国立公園やフロリダのディズニー・ワールドなどあちこちを家族で観光旅行したのは楽しい憩いのひと時だった。

 そして最初の予定の留学2年が終わる頃に、ボスから「給料を出すから、もう1年残らないか?」と声をかけられた。日本の所属大学の教授に相談すると許可が出たので、そのまま3年目の研究生活が続くことになった。子供達は現地の保育園や小学校に入った。彼女が次男を保育園に朝車で送ると、次男は園の部屋の窓枠につかまって母親の車が見えなくなるまで泣いて見ていたようだ。長男も、周りは言葉のわからない意地悪でイタズラ好きな園児ばかりで友達も出来ず辛いことが沢山あったようだ。アパートにいる日本人留学生家族が留学を終えて帰国する時には、研究所の日本人会のみんなで空港まで行き見送るのが慣習になっていたが、そこで飛び立つ日本行きの飛行機を家族で見送るたびに、「自分達が日本に帰るのはいつのことか?」と胸の中で思ってため息をついていたものである。

 住んでいる市内には、冬になると多くの白鳥などの渡り鳥が越冬のためにやって来る小さな湖があった。家族で週末はよくその公園にも行って遊んだ。寒い所なので雪の降る冬は10月から翌年5月まで続く。長い冬がやっと終わる頃に湖の鳥達はさらに北の地を目指して飛び立っていく。その様子を見ていると、日本にいた高校生の頃に彼女と交わした手紙のことが思い出された。あれは、まるで北の信州と南の九州の2人の間を行き来する渡り鳥のような手紙だったなあと思いながら。


 こうして過ごした長い3年間の留学生活も終わりに近づき、ボスからは研究室に残って一緒に働かないかとの誘いがあったが、家族のアメリカ生活の苦労や子供たちの将来の教育を考えて帰国することに決めた。久しぶりに日本の大学に戻り、それからは家族にとって平凡な生活に戻った。長男は地元の小学校に入り、また友達のいない学校生活が始まり、「頭が黄色い子がいる学校に戻りたい」と言っていたが、もう私たちがアメリカに戻ることはなかった。やがて、私は夢中になって学生の講義や研究や病院の仕事をしているうちに講師になり、準教授になりますます多忙になったが、教授選に負けて、あっと言う間に私は定年退職を迎えた。今は、自宅の近くの一般病院で勤務医として働いている。子供たちは大学を出て社会人となり家を出ていき、やがて、平凡な2人だけの家庭生活に戻ったのである。


  結婚に反対した母親は、結婚してからは彼女を親しく大事にしてくれたが、今はもう亡くなっていない。数年前に次男は結婚して子供が生まれて、時々幼い子供を連れて我が家に遊びに来るようになった。長男も好きな女性が出来て一緒に家に遊びに来るようになった。若い子供達のカップルを見ていると、遠い昔にドキドキしながら文通をしていた頃の2人を思い出す。あの頃、どんなことを手紙に書いていたのかな?実は私は、50年前に彼女からもらった手紙は来るたびに全部スクラップブックに貼って今も屋根裏部屋のダンボール箱に保存している。いつかそれを彼女に見せてサプライズしてみようと密かに思っている。その表紙には「渡り鳥」と記して、最初のページにこんな短い詩を書きこんである。


北国と

南国に住む者を結ぶように

渡り鳥が飛ぶ


 先日、子供達が我が家に集まった時に私達2人の出会いの頃の話になった。何故彼女は多くのハガキの中から私のハガキを選んだのか?それは、「あなたのハガキには、僕と一緒に心の旅に出ませんか?と書いてあったのよ。それが他の人とは違っていたので、この人がいいと思ったの」ということのようだ。そうだったのか、その文面はすっかり忘れていた。

 50年前に心の旅に出た2人は、あちらこちらとフラフラしながら今にたどり着いた。この先の心の旅はどこへ行くのだろう?それはまだ考えまい。しばし、遠い昔の2人の手紙を静かに思い起こして過ごそうと思う。

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あなたの人生には、これまで、どのような出会いがあっただろうか。

最終更新:6/21(水) 21:02
STORYS.JP

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