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生え抜き育成に心血注いだ須藤二軍監督の使命感

6/23(金) 11:00配信

東スポWeb

【検証巨人軍 盟主は復活できるか(3)】よく巨人は若手を育てられないと言われるが、原前監督時代の途中までは生え抜きの育成に力を注いでいた。その象徴的存在が2007年に育成から支配下に昇格させた松本哲、山口鉄。松本哲は09年に新人王、山口鉄は不動のセットアッパーとして08年から16年まで9年連続60試合登板を達成。また、11年には藤村が4年目で盗塁王を獲得、14年には橋本到が1年だけながら外野の一角に定着している。

 原監督は第1次政権の02年にも、くすぶっていた河原をクローザーとして再生。野手では斉藤宜、川中らを主力に仕立て上げた実績を持つ。

 当時は、一軍の原監督と二軍監督の吉村(06~08年)、岡崎(09~10、13~15年。現スカウト部長)、川相(11~12年。現三軍監督)が現役時代からチームメートだったこともあり、密に連絡を取り合っている。「一軍の試合後の深夜、ケータイを鳴らされる」とボヤいていたのは吉村である。

 二軍で育成に当たった彼ら自身も、二軍からのたたき上げだった。川相は国松、須藤二軍監督の下で鍛え上げられ、7年目の1989年にやっとレギュラーに定着。現ヘッドコーチ・村田はもっと遅咲きで、3年目の84年に一軍初出場すると翌85年に右肩を手術。90年に正捕手となるまで8年もかかっている。

 体にメスを入れたら選手生命は終わりと言われた当時、嫌がる村田に手術をするよう根気強く説得したのが二軍監督の須藤だった。その村田が一軍に昇格すると、肩が弱い、リードがヘタだと酷評される中、藤田監督が大変辛抱強く教育している。シーズン中、どのような意図でリードしているか、何度もリポートを提出させ「この配球は間違いだ。もっと投手心理を勉強しろ」と差し向かいで指導したのだ。

 ちなみに、藤田と須藤は決して仲のいい間柄ではなかった。藤田が巨人に復帰した89年、須藤は藤田から一軍ヘッドを要請されたが、拒否して二軍に残留。翌90年に大洋(現DeNA)監督に就任し「二度と巨人の敷居はまたがんぞ」と絶縁宣言までしたほど。

 それでも、当時の指導者には「巨人の将来のために若手を育てなければ」という使命感が感じられた。それは、彼らが巨人の生え抜きで、常勝球団でなければならないという意識と自覚を刷り込まれていたからだ。

 だからこそ、指導者となった村田や川相には、もっとできることがあるはずだ、と思うのだが。

最終更新:6/23(金) 11:06
東スポWeb

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