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父と兄隔離、苦労の母他界 ハンセン病訴訟、決意の女性が原告加わる

6/23(金) 0:30配信

埼玉新聞

 国のハンセン病強制隔離政策の下で、沈黙を強いられてきた患者の家族が、声を上げ始めている。埼玉県内を含め全国で計568人が、国に謝罪と損害賠償を求めた集団訴訟。父親と兄が元患者で、家族を引き離された東京都内の女性(72)は今も、差別された傷が心に残る。それでも、若くしてこの世を去った母親の思いを代弁しようと、原告に加わった女性は裁判について「自分探しの闘い」と位置付けている。

 女性は鹿児島県出身。両親と兄、妹の5人家族だった。自身が5歳と7歳のとき、父と兄が相次いで、同県鹿屋市のハンセン病療養所「国立療養所星塚敬愛園」に隔離された。「らい」と呼ばれていたハンセン病患者を療養所に強制入所させる「無らい県運動」の時期。県職員だった父も同僚に密告され、大きなワゴン車に連れていかれた。悲しそうに後ろを振り返る父の表情は今も覚えている。以来、一家はハンセン病について、口をつぐんだ。

 同級生からは「らいの子」「らいがうつるから近寄るな」といじめられた。ショックだったのは、先生から言われた「本当のことだから仕方ない」という言葉。初めて「ひどい病気」と認識し、我慢することを悟った。

 母は「らい」について何も触れなかった。「あなたたちを学校に出すために頑張るから」と女手一つで子どもたちを育て、弱音は一切吐かなかった。そんな母ががんを患い、小学4年のときに妹と2人きりで半年間生活したことも。料理中に包丁で切った指の傷は今も、左手に残る。

 唯一のよりどころは療養所だった。職員に見つからないように、年中、父の元に通い詰めた。ここに来れば、いじめられることもない。「何も隠さなくても良い安心感があった」。就寝時間を過ぎると、父も度々、療養所を抜け出して自宅を訪れた。ただ、家族で声を出して笑うことも、一緒に出掛けることもできない。こそこそしている父の背中が痛々しかった。

 兄は高校卒業後の1961年に療養所を退所。母、兄、妹と4人の生活が戻った。父は2003年に82歳でようやく退所したが、母は1979年に57歳で他界。家族が再び一緒に暮らすことはかなわなかった。「一番苦労して、父の帰りを待っていたはず」。亡き母の思いを代弁するため、女性は原告になることを決意した。

 女性が裁判に参加することを娘に伝えると、「ママのトラウマ取ってきなよ」と言われた。その言葉に、女性は「間違った情報、法律で気持ちを抑圧されていた。ずっと何も言えずに強がって生きてきたんだ」と気付かされた。今はまだ、母親に伝えたい言葉も見つからない。だが、国が政策の過ちを認め、謝罪してくれたら…。「そのとき、私がかぶってきた鎧(よろい)も取れるかもしれない。きっと母に伝えたい言葉も見つかると思う」

 元患者の家族による集団訴訟の原告は全国で計568人に上り、うち県内を含む関東圏は59人。国は「隔離政策は元患者への差別や偏見を助長したが、家族にまで及んでいない」として争っている。

最終更新:6/23(金) 20:40
埼玉新聞