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忘れたかった対馬丸の悲劇、でも今は… 生存者の84歳「命ある限り語り継ぐ」

6/23(金) 5:25配信

沖縄タイムス

 1944年8月22日の夜、米軍潜水艦の魚雷を受けて沈没した「対馬丸」。生存者の久高将吉さん(84)=沖縄県南城市つきしろ区=は「事件が風化しないうちに戦争を知らない世代に話しておきたい」と体験を語り継ぐ活動を始めた。11日につきしろ公民館であった平和講演会では区内外の約70人の聴衆を前に、初めて自身の体験を語った。

 当時11歳の久高さんは疎開のため、父、母、兄の一家4人で宮崎に向かう途中で事件に遭遇した。魚雷が命中した船が沈みゆく中、父母と一緒にいかだにしがみついた。兄も隣のいかだにつかまっており「全員大丈夫だ」と思った。夜が明けると、そこら中にあったいかだは周囲に一つもなく、兄も行方知れずとなった。

 3人は飢えや喉の渇きに苦しみながら6日間漂流。「水が飲みたくて、水がめが浮いている幻覚を何度も見た」。台風にも遭遇し、10メートルを超える高波にもまれ、必死でいかだのロープを握りしめて耐え抜いた。一家は警戒中の日本軍の爆撃機に発見され、対馬丸沈没から6日後の28日に救助された。

 戦後、兄は奄美大島の宇検村に遺体で流れ着き、他の犠牲者と一緒に埋められたことを知った。「一緒のいかだに乗せていれば」。父は幾度となくつぶやいた。他の遺族と共に、父は奄美に渡り遺骨を収集、糸満市米須の魂魄(こんぱく)の塔に納めた。

 久高さんは毎年8月22日に那覇市若狭の小桜の塔で開かれる慰霊祭に参加した後、魂魄の塔に行き手を合わせる。しかし、生存者も高齢化し、慰霊祭に参加するのは4、5人までに減ったという。

 「今までは対馬丸のことは忘れたいと思っていた」という久高さん。体験者が減っていく現実の中で、自身が語り部として次世代に伝えていかなければと思うようになった。「戦後72年がたち、喉元過ぎれば熱さを忘れる。戦争を知らない世代に悲惨な体験を伝えないと、戦前のような国に戻るのではと心配だ」

 久高さんと親交の深い、つきしろ自治会の新城辰夫自治会長(77)は「今の基地問題につながる原点は沖縄戦にある。体験者の話を聞くことで平和の尊さをつなぐことができる」と語った。

 久高さんは「戦争は二度とあってはいけない。命ある限り、この体験を語り継いでいきたい」と力強く誓った。

最終更新:6/23(金) 5:25
沖縄タイムス