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沖縄戦から72年「戦争はもう嫌だ」 慰霊の日、島を包む平和の祈り

6/23(金) 12:05配信

沖縄タイムス

 戦後72年の「慰霊の日」を迎えた23日、沖縄県内では沖縄戦で亡くなった20万人を超える犠牲者を追悼し、恒久平和を希求する祈りに包まれた。

【写真】戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で三線を弾く女性

 糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎(いしじ)」や、同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」などには、朝早くから多くの戦争体験者や遺族らが訪れ、亡き肉親や友人らの魂を慰めた。子や孫らと一緒に線香や花を手向け、祈りをささげる姿もみられた。

 同公園では、午前11時50分から、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われた。安倍晋三首相や衆参両院議長のほか外務、防衛、厚生労働、沖縄担当の関係閣僚らが出席。正午の時報に合わせて黙とうした。

 沖縄戦では一般県民約9万4千人と、日米軍人・軍属などを合わせて20万人余が亡くなった。敵味方を問わず、沖縄戦の戦没者らの名を刻む平和の礎には、今年新たに54人(県内31人、県外8人、海外15人)が加わり、計24万1468人が刻銘されている。

「多くの死を見た。戦争はもう嫌だ」

 ◆仲村渠ヨシ子さん(79)=南城市

 南風原町宮城に暮らしていたが、ここは家族全滅したところが多かった。だから戦死した父の名前を探すのも一苦労。父は沖縄のどこかで戦っていたらしいけど、詳しくは何もわからない。最後はけがして南風原の軍病院にいたらしいとだけ聞いていて、お骨もなくかわいそうね。

 私は当時国民学校1年生。米軍が上陸したというから、母と弟とやんばるを目指したが、どうやって逃げたか覚えていない。母は食料や布団など背負って、私は弟をおぶっていた。今の大宜味村あたりで空襲があり、弟は私の背中で死んでしまった。

 むごかったのは那覇にいた時の10・10空襲。もう死体で足の踏み場もない。その時避難していた壕(ごう)の中から、たくさんの若い人がおじいやおばあを背負って、一緒に撃たれて死んでいくのを見ていた。戦争はもう二度と嫌だ。

 基地は全く無いのも困るけど、やはり戦争の時に狙われるのではと怖い。どっちがいいのかわからない。

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最終更新:6/23(金) 14:15
沖縄タイムス