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戦禍語る土蔵解体へ 富山大空襲で被害・岡田さん方

6/25(日) 5:00配信

北日本新聞

 富山大空襲で被害に遭いながら焼け残った富山市大泉東町1丁目の岡田裕さん(69)方の土蔵が、老朽化のため取り壊されることになった。岡田さんの父、故松之助さんが大切に残してきたもので、長女の渡邊秋子さん(67)は「悲惨な過去の歴史を伝えるため残したいが仕方ない」と声を落とす。戦争の証言者や戦禍を物語る建造物が年々少なくなっているなか、富山大空襲の遺構がまた一つ姿を消す。 (社会部・堀佑太)

 土蔵は1935年に建てられた。45年8月2日未明、米爆撃機B29による大空襲で焼夷(しょうい)弾の直撃を受けながら焼失を免れ、現在も屋根には穴の跡がある。内部の壁は黒く焼け焦げて炭化した木材がむき出しになるなど、戦火の跡が生々しく残っている。

 松之助さんの手記によると、空襲後に家族が避難していた防空壕(ごう)から戻ると、家屋は全焼し、土蔵だけが残っていた。中は煙が充満し、火がくすぶっていたため、近くの住民らの協力を受け、3日間かけて消火した。

 土蔵は終戦後、家族9人が3年ほど暮らした思い出の“家”でもあった。当時、空襲で家を失った人の多くは親戚や実家などを頼って生活することが多かったという。松之助さんが戦後、土蔵を大切に守ってきた理由について、秋子さんは「土蔵のおかげで家族が離れ離れにならずに生活でき、感謝の気持ちが大きかったのではないか」と思いを巡らす。

 父が大切に残してきた土蔵を取り壊すことを、秋子さんは「心苦しい」という。ただ、80年以上たつ土蔵の床は激しく傷み、壁や窓枠の素材も崩れやすくなっており、「このまま置いておけない」。7月中にも解体する予定だ。

 富山大空襲を語り継ぐ会の和田雄二郎事務局長(80)によると、当時、比較的裕福な家には耐火性の土蔵があり、空襲で家が焼失しても土蔵が残ることは珍しくなかった。ただ、岡田さん方の土蔵のように焼夷弾の直撃を受けながら、空襲から70年以上たった今も残っている例はあまりないという。

 富山市内ではここ10年ほどの間に、戦火をくぐり抜けた建物が相次いで姿を消した。廃業に伴い解体された立山醤油(しょうゆ)味噌(みそ)(富山市舟橋今町)のれんが造りの煙突や、神通川に架かる富山大橋、富山市中心部のにぎわいをつくってきた旧富山大和などだ。和田事務局長はこうした状況を「残念だが、老朽化に伴う取り壊しは仕方ない」と受け止め、「時代の流れに従って遺構が少なくなっていっても、写真などを使いながら空襲の悲惨さを多くの人に語り継いでいきたい」と話した。

北日本新聞社

最終更新:6/25(日) 9:45
北日本新聞