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緻密外交、百万石の礎 新湊博物館、加賀藩宛て書状3通発見

6/29(木) 5:00配信

北日本新聞

■権力者と強固な関係

 射水市新湊博物館(同市鏡宮)の調査で見つかった江戸時代初期の書状3通は、豊臣秀頼と秀吉の正室ねね(高台院)、徳川秀忠という時代の「主役」たちがしたためた貴重な品だった。徳川家が豊臣家を滅亡させた大坂の陣の前後に加賀藩に宛てた書状から読み解けるのは、地方にありながら隆盛を極めた加賀藩の細やかな外交政策だった。

■高台院の礼状

 高台院の礼状は1606~24年に記されたとみられる。文字を斜めに書き大きい文字の余白に追伸を小さく記す「ちらし書き」で、これまで全国で30通ほどしか見つかっていない貴重なものだ。

 内容は、正月の祝いにサケ3匹などを贈ってもらったことへのお礼。丁寧な言葉で、加賀藩の重臣・中村刑部に宛てて記している。

 高台院は、豊臣政権で大きな政治力と発言力を持っていたとされる。豊臣家滅亡後も徳川家から厚遇を受けたほか公家との関係も深かったとされるなど、権力と近い位置に身を置き続けた。

■秀忠の礼状

 秀忠は、加賀藩から小袖を贈られたことへの礼を記している。同藩3代藩主・前田利常を「加賀宰相」としていることから、1615~22年に書かれたとみられる。

 利常にとって、秀忠は妻の父に当たる。大坂の陣で徳川方として出陣した利常が豊臣家滅亡後、折に触れ徳川家との関係を強めようとしたことを示している。

■微妙な立場

 江戸時代初期、加賀藩は微妙な立場に置かれていた。

 利常の父、利家は秀吉と共に織田信長に仕え、豊臣政権末期には五大老の一人となった。江戸幕府を開いた徳川家康にとって豊臣家と関係の深い前田家は脅威であり、1600年の関ケ原の戦いの後には越前(現福井県)に次男の結城秀康を置き、前田家に圧力をかけた。

 江戸時代、外様大名としては別格の存在感を示し「加賀百万石」として栄えた前田家。3通の書状について、新湊博物館は「時の権力者との関係を細やかに築き上げた加賀藩の黎明(れいめい)期の政策をつまびらかにする史料だ」とする。


■あす30日から展示

3通の書状は、30日から射水市新湊博物館で始まる企画展「贈りもの-プレゼントいまむかし-」で展示する。

北日本新聞社

最終更新:6/29(木) 5:00
北日本新聞