ここから本文です

元阪急監督の上田利治氏が死去

7/2(日) 5:53配信

スポーツ報知

 阪急(現オリックス)、日本ハムなどで監督を務めた上田利治(うえだ・としはる)氏が死去したことが1日深夜、分かった。80歳だった。現役でのプレーは短かったが、コーチ、監督として優れた手腕を発揮。阪急では1975年から3年連続日本一に導くなど、黄金時代を築いた名将だった。

 上田氏は徳島・海南高から一般入試で関大に進学。当初は野球を続けるつもりはなく、「法律の道に進もうと思って」法学部に入ったが、野球部には剛球で知られた村山実氏(故人)の球を受けられる人材がいなかったため、高校時代に捕手としてプレーしていた経験を買われて入部。黄金バッテリーが誕生した。

 大学卒業後、1959年に広島入団。だが、右肩の故障などもあり、61年に現役を引退した。プロでの実働は3年間だったにもかかわらず、翌62年から広島のコーチに就任。71年には阪急のヘッドコーチを務め、74年には37歳の若さで監督に就任した。

 就任2年目の1975年には悲願の日本一を達成。山田久志、加藤秀司、福本豊、足立光宏ら個性派のスター選手をまとめ、同年から日本シリーズ3連覇を含むリーグV4を達成した。

 78年のヤクルトとの日本シリーズでは、3勝3敗で迎えた第7戦の6回に大杉勝男が左翼へ放った本塁打を「ファウルだ」と猛抗議。選手をグラウンドから引き揚げさせ、なお抗議を続けた。コミッショナー裁定により試合は再開したが、中断はシリーズ史上最長の1時間19分にも及んだ。この責任を取り、このシーズン限りで退任したが、81年に監督復帰し阪急、オリックスで10年間指揮を執った。

 95年からは日本ハムの監督に就任し、96年には優勝したオリックスと激しい優勝争いを繰り広げたが、シーズン終盤の9月に「家庭の事情」を理由に休養。その後、再び復帰したが、99年に退任した後は野球評論家として活動していた。

 99年に肝臓を手術して以降は、体調に考慮しながらの生活で、検査入院などを繰り返すこともあったという。15年1月に大阪・吹田市で行われた関大硬式野球部創立100周年のパーティーも、体調面を理由に欠席していた。

 監督通算20年間でリーグ優勝5度、日本一3度。「ええで、ええで」と選手を褒めることで知られ、最下位は一度もなかった。03年に野球殿堂入りした。

 ◆オリックス・福良淳一監督(1984年、阪急入団時の監督が上田氏)「ここ何年もお会いしてなく、連絡も取っていなかったが、(体調が)悪いとは聞いていた。急なことでビックリしている。あの方のおかげでここまで来れたと思っている」

 ◆上田 利治(うえだ・としはる)1937年1月18日、徳島県生まれ。徳島・海南高を経て、関大では村山実(阪神)とバッテリーを組んだ。59年に広島入団したが、実働3年間で出場は121試合だけ。62年に広島コーチに就任。71年から阪急コーチ、74~78、81~90年と阪急、オリックスの監督を務め、リーグ制覇5度、日本一に3度。95~99年は日本ハム監督。監督通算成績は2574試合、1322勝1136敗116分け、勝率・538。

最終更新:7/2(日) 7:58
スポーツ報知