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上田利治さんを悼む 担当記者が振り返る“野球小僧”伝説

7/3(月) 16:45配信

東スポWeb

 元阪急、オリックス、日本ハム監督の上田利治氏が1日午前2時55分、肺炎のため川崎市の病院で死去した。80歳だった。葬儀・告別式は6日午前10時から横浜市青葉区美しが丘2の21の4、公益社会館たまプラーザで。喪主は妻勝子(かつこ)さん。監督20年で1322勝1136敗116分け、リーグ優勝5度、日本一3度の名将をかつての担当記者がしのんだ。

 阪神担当から阪急担当に代わったばかりの春季・高知キャンプで忘れられない思い出がある。猛練習で知られた上田阪急の長い長いグラウンド取材を終え、高知市営球場からチーム宿舎に回って、日がどっぷりと暮れたころに原稿を書き終えた。そこから夜間練習の取材だ。阪急に限らずどの球団でも組み込むメニューなのだが、宿舎からタクシーを飛ばして駆け付けた市営球場内の室内練習場に到着して驚いた。

「あ~、打ち損じやないかい!」「そうそう。オーケー。ナイス、バッテン!」「もう一丁、もう一丁!」。大声を張り上げ、福良、藤井、本西ら後のブレーブスの主力を張る若手たちを鼓舞していたのは、担当コーチではない。監督・上田利治さんだった。

 打撃ケージの真後ろで腕組みし、眼光鋭く仁王立ち。まるで自分が打席に立っているかのように一球、一球、奥歯をギュッとかみしめ、上体を前のめりにする。まさに指揮官先頭。阪神担当時代には見たこともない光景に「闘将」と呼ばれた片鱗を垣間見た。

 春季キャンプ直後の阪神との定期オープン戦では「エエか、この試合は絶対に勝つで。タイガースからスポーツ紙の1面を奪うでぇ」。宿敵・広岡西武との3連戦前には「エエか。あの涼しげな広岡をギャフンと言わせたろうやないか」。そして代名詞ともなった「あの子はエエでぇ」「この子もエエでぇ」の“エエで節”。失礼ながら野球小僧そのまま。純粋で直情的で熱血的で、何より3度の飯より野球が好きな人だった。

 上田さんを物語る象徴的なエピソードをご紹介したい。当時、本紙パ・リーグ取材班が総力を挙げてスクープした記事がある。「近鉄の本拠地・藤井寺球場でスパイ活動」――。この記事の関連コメントを取るため、近鉄関係者とみられる人物が藤井寺球場バックスクリーンのスコアボードの隙間から、双眼鏡でグラウンドをのぞく“証拠写真”を見せられた上田さん。顔を真っ赤にして目をカッと見開き、怒髪天をつく勢いでまくし立てた。「何や、コレは。空気銃で撃ったろうかぁ!」
 つつしんでご冥福をお祈りいたします。 (1987年阪急ブレーブス担当 長浜喜一)

☆うえだ・としはる 1937年1月18日、徳島県出身。徳島海南から関大へ進学。関大時代に故村山実氏(元阪神)とバッテリーを組み、59年に広島入団。3年間で現役を引退したが、捕手として121試合に出場、打率2割1分8厘、2本塁打。62年から広島、阪急でコーチを務めた。74年から阪急(現オリックス)を指揮し、75年から3年連続日本一。78年の日本シリーズで1時間19分の抗議をした責任を取って辞任。81年から阪急、オリックスを10年間率い、95年から5年間は日本ハム監督を務めた。監督20年で1322勝1136敗116分け。リーグ優勝5度、日本一3度。2003年に野球殿堂入りした。

最終更新:7/3(月) 16:45
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