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「外南部」の俗称か? 斗南藩、藩名の由来に新説

7/3(月) 10:22配信

デーリー東北新聞社

 戊辰(ぼしん)戦争で敗れた会津藩が明治初期、北奥羽地方に国替えとなって成立した斗南藩に関する研究が近年、新たな展開を見せている。これまで定説がなかった藩名「斗南」の由来について、「地名ではなく、北斗の南に位置する」「外南部という地元の俗称」と記された史料が見つかり、旧藩士たちによって当時の帝国議会に提出されたものであることが判明。それらの史料から、廃藩置県後の秩禄(ちつろく)処分を巡り、旧藩士が政府を相手に長期にわたって、藩政期の禄高(ろくだか)承認(復禄)を訴えていた事実も浮かび上がってきた。

 ■史料次々と

 一連の史料を見つけたのは、さいたま市在住の幕末史家伊藤哲也さん(48)。2014年、国立国会図書館が所蔵する明治期の大蔵省が作成した公文書に、青森県の聞き取り調査で「北斗ノ南ニ在ルノ意」「外南部ノ俗稱(称)」から名付けられた―との内容の記述を発見。当時の政府が、明治3(1870)年4月24日付でこの藩名を承認したとしている。

 同じ14年、国立公文書館で旧藩士が政府を相手取って復禄を求めた訴訟の判決原本を確認。その2年後には、訴訟前の明治35(1902)年、斗南など各地の旧藩士が帝国議会の臨時秩禄処分調査委員会に提出した復禄請願の書類に、藩名について大蔵省の文書と同様の記述を見つけ、大蔵省文書がこの部分の写しであると断定。藩名の特定が復禄請願における重要な証拠の一つだったと結論付けた。

 ■真相に近づく

 請願の代表者には「山口力三郎」と、八戸町(当時)在住の旧藩士の名が記されている。伊藤さんは旧藩士の団体が提出している点を重視し、「藩名由来の真相に一歩近づいたのでは」と期待を寄せる。

 一方、別の研究者は▽青森県取調書の写しであり、原本ではない▽取り調べの時期や対象者が明確でない▽代表者の山口が斗南命名に関わった藩の中枢身分とは言えない―などと指摘。藩の方針を巡る派閥や身分の上下によって、情報や見解が交錯している点を考慮し、「少なくとも一部の中下層の旧藩士の間では、由来をそう認識していたのかもしれない」との見方だ。

 ■何らかの思い?

 「外南部ノ俗稱」に関しては、青森県取調書でも「…ト相聞エ候」と曖昧に記しており、当時の県南地方で一般的な呼称だったかについても疑問の余地が残る。

 幕末維新期の歴史に詳しい明治大文学部の落合弘樹教授によると、全国の大名が明治に入って藩の体制を改めた際、大半が政庁のある土地の名を藩名とした。斗南のような新しい名前は江戸から移転して「駿河府中」を「静岡」とした徳川宗家などの例を除き、ほとんど見られないという。

 落合教授は、新名とした理由について▽斗南藩庁が置かれた五戸や大湊が、中心地としては規模が小さかった▽新天地に根付く意気込みを込めた―などと推測した上で「本来の地名を基にしていないとすれば、他に何らかの思いを含めていたとしても不思議はない」と話した。

▼「斗南」の由来
 「北斗以南皆帝州(北から南は皆、天子の地である)」という中国の詩文から採ったとする説が知られているが、詩文の原典は確認されていない。郷土史家の葛西富夫氏は、射手座の一部である「南斗六星」などから、新政府に対抗し、いつか会津(南)に戻って再興を図る(図=斗)、の意を込めたと推測している。

▼秩禄処分
 1876(明治9)年、武士や公家の出身者が身分に応じて受けていた家禄(給与)を全廃した新政府の政策。維新の功労者に与えられた賞典録も、併せて廃止された。

デーリー東北新聞社