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〈民生委員100年〉避難で住民分散も訪問続ける 福島・大熊町ルポ

7/3(月) 11:08配信

福祉新聞

 民生委員制度が今年、創設100周年を迎えました。大正6年の済世顧問制度から始まり、社会情勢が大きく変わっても、住民の困りごとに寄り添い、課題解決に向けた「つなぎ役」として、地域に安心感を与える存在であり続けてきました。小紙では地域の「よき隣人」である民生委員の活動を本号から5回にわたり紹介します。
   
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 東京電力福島第1原子力発電所がある福島県大熊町。東日本大震災による事故で全町民が避難しているため、民生委員は避難先での見守り活動などに日々奔走している。

 大熊町民は今年6月時点で1万586人。震災時に比べて約900人減った。町民の約8割は県内に避難している。多いのは、いわき市(4639人)、郡山市(1064人)、会津若松市(1002人)。仮設住宅は13カ所に減ったが、それでも計469人が暮らしている。

 大熊町民生児童委員協議会は震災から2カ月後、避難先から民生委員が集まって話し合いの場をもった。仕事や学校の都合で家族が離ればなれになり一人暮らしの高齢者が増えてきたことから、見守り活動を行うことにした。

 大熊町の民生児童委員は27人。避難した町民が多く、町役場の事務所も設置されていた、いわき・郡山・会津若松の3市に分け、自分が居住する地域(現在いわき市16人、会津若松市7人、郡山市3人)を中心に担当する体制をとった。

 しかし、避難先の全く知らない土地での見守り活動は容易ではない。通常は自分が住み慣れ周辺の事情もよく知った地域を担当するが、そうした基盤や情報もない地域での活動は思っている以上に負担が大きい。

 仮設住宅から借り上げ住宅や復興公営住宅、新築の戸建てなどへの引っ越しが進むと、訪問先が変わり道に迷ったり、移動距離が長くなったりして、車での事故を起こさないよう気を遣う。

 民生委員も被災者としての心労があり、日々変わる状況に対応しなければならず、ストレスがたまっていく。ただそれでも「一人でも多くの町民に会いたい」(根本友子・大熊町民児協会長)との思いで活動を続けている。

 町民児協では負担を和らげるため、2人1組で訪問することを基本とした。悩みを一人で抱え込まないようにするためでもある。また民生委員が集まって自由に話し合う場を設け、気持ちを楽にして活動できるよう研修なども行っている。

 この日は根本会長と民生委員の島英子さんが、仮設住宅(いわき市)で一人暮らしをする94歳の飯畑トヤさんを訪ねた。健康のこと、町民の知り合いのことなどで会話が弾む。飯畑さんは「元気でいられるのはみなさんのおかげ」と感謝し、根本会長らは元気な姿に胸をなで下ろす。本来はいま住む地域の民生委員が担当するが、「同じ町民だから話をしやすいし、悩みを分かり合えることがある」と根本会長は話す。

 大熊町の民生委員は震災後に大半が変わった。避難を余儀なくされ辞めざるを得なかった。それでも欠員を出さずに活動している。

 定例会などを通じて町社会福祉協議会の生活支援相談員や町役場の担当課などとの連携もとれている。ただ3市に分散しているため、月に一度とはいえ150キロを移動して集まるのは時間もかかり負担となっている。

 震災で大熊町の民生委員の死者はでなかったが、東北では要援護者を支援するため逃げ遅れるなどして56人の民生委員が犠牲になった。震災の教訓として根本会長は「まずは自分の命が一番。それから家族の安全、地域の安全」と強調する。

 町役場は2年半後に大熊町に戻る予定。それに伴ってどれだけ町民が戻るか、戻ったとしても大半は高齢者ではないか。そうなれば見守り活動が不可欠になる。

 まもなく震災後7回目の夏を迎えるが、根本会長は「民生委員であることが頭から離れたことは一度もない」。揺るぎない信念と熱意で町民をこれからも支えていく。

最終更新:7/3(月) 11:08
福祉新聞