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社説[呉屋秀信さん死去]経済の重鎮 各面に足跡

7/6(木) 8:55配信

沖縄タイムス

 金秀グループ創業者で県経営者協会会長、県工業連合会会長などを務めた経済界の重鎮、呉屋秀信氏が4日、肺炎のため豊見城市内の病院で亡くなった。89歳だった。

 懐(ふところ)の深い人だった。端然として、どこか「明治人」を思わせる古風なところがあったが、昭和一ケタ世代だ。

 経済界のリーダーが集う沖縄経済同友会の設立当初のメンバーも、その多くが昭和一ケタである。

 ただ、高学歴で経済人2世の多かった同友会メンバーと違って、年長の呉屋さんは小さな鍛冶屋からスタートし、県内でも有数の企業グループを一代で築き上げた。

 沖縄戦の翌年1946年に西原村(当時)の生家の庭で、沖縄戦の残骸鉄くずを利用し、3人で鍛冶屋を始めた。

 47年には民政府から企業の免許を得て金秀鉄工所を設立し、本格的に農機具の製作販売に乗り出す。当時19歳。呉屋さんの読みは当たった。鍬、鎌、ヘラ、鍋などが飛ぶように売れたという。

 その後、金秀鋼材、金秀アルミなどの建設関連会社を次々に立ち上げ、さらに小売業、ホテル、ゴルフ場経営にまで触手を広げ、多角経営を進める。

 同族経営の閉鎖性を克服するため幹部級の人材を外部から積極的に受け入れる一方、

「誠実・努力・奉仕」という社訓を企業理念として根付かせた。

 社訓は、言葉だけをとってみれば、平凡な「きれいごとの羅列」のようにも見えるが、それは呉屋さんが体得した人生哲学そのものだった。

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 呉屋さんには「三つの顔」があった。

 本来の企業活動と産業振興で多くの功績を残した呉屋さんは、経済人の立場で政治に深く関与し、福祉・文化・スポーツなどの社会事業にも積極的に参加した。

 「信望が厚く、長としての風格があり、カネが集められる人」。そんな評価のゆえに知事選挙や国政選挙のたびに、保守系候補の選対責任者に担がれた。国場幸昌元衆院議員の選対本部長を長く務め、西銘順治元知事が知事選に出馬したときは、選対事務総長として経済団体を束ね、10年ぶりに県政を革新から奪い返した。

 保守を自認した呉屋さんは、こと基地問題に関しては保守革新の違いを超えた沖縄党的な立場を大切にした。

 そのかたわら、県身体障害者福祉協会、首里城復元期成会、那覇大綱挽保存会、県空手道連合会など多くの団体の会長を務めている。

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 呉屋さんは国民学校を卒業したあと、工場の技術員や工員を養成する沖縄製糖の工員養成所で学んだ。

 若いときに苦労した自身の経験から、人材育成にはとりわけ熱心だった。95年には金秀青少年育成財団を設立し、商・工業高校などに通う生徒を支え続けている。

 呉屋さんの訃報に接し、驚きと同時に深い喪失感に襲われた。沖縄の戦後が遠のいていくような感覚といえばいいか。幅広い活動によって多くの人々に深い印象を残した人だった。

最終更新:7/6(木) 8:55
沖縄タイムス