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「ノーモア・ヒバクシャ」核禁条約、道を切り開いた35年前の演説

7/9(日) 9:30配信

長崎新聞

 「私たち被爆者は訴えます。命のある限り、私は訴え続けます。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウオー、ノーモア・ヒバクシャ!」。1982年6月24日、米ニューヨークの国連本部であった軍縮特別総会。演説した長崎の被爆者、山口仙二さん=当時(51)=の表情には真剣さと迫力がみなぎっていた。この時、強く求めたのが「核兵器の使用を人道に反する犯罪として禁止する国際協定」。7日の国連会合で採択された核兵器禁止条約の冒頭にも同様の趣旨の文言が盛り込まれた。2013年に82歳で亡くなった山口さんの遺族や共に運動してきた被爆者の仲間は、条約への道を切り開いた35年前の演説の重みをかみしめている。

 核禁条約が採択される見通しが強まった3日、山口さんの長女、野田朱美さん(57)と、次女の横田美和さん(54)は、長崎市の長崎原爆資料館を訪れた。テレビ画面から流れる父の演説の映像を見ながら、その存在の大きさを思い起こしていた。朱美さんは「演説の後、たくさんの人に『あなたのお父さんが頑張ってくれた』とほめてもらったんです」と振り返った。

 父は家庭で被爆者運動についてほとんど語らなかったが、毎年梅雨が近づくと表情が張り詰め、体調を崩しがちだった。8月9日まで運動に忙殺される日々が続き、何かを背負っているようにも見えた。

 2人には原爆・平和にまつわる父との思い出が二つある。子どものころ、長崎国際文化会館(長崎原爆資料館の前身)に連れて行かれた際、残酷な展示を見て怖くなって泣いた。一度だけ夏に平和公園での座り込みに参加させられ、汗だくになった。当時は父の意図が分からなかったが、原爆の悲惨さと平和運動の原点を感じ取ってほしいと思っていたのかもしれない。

 父が生きていたら、核禁条約の採択に顔をほころばせていただろう。だが唯一の戦争被爆国にもかかわらず、制定交渉に参加しなかった日本政府には怒り、こう言うのではないか。

 「核廃絶はこれから。被爆地がしっかりせんば」

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は、山口さんの演説の原稿を保管している。当時、被団協代表委員だった山口さんや全国理事だった岩佐幹三さん(88)らで何度も文案を練り直し、前日に完成した。演説にも立ち会った岩佐さんは「仙ちゃんが条約への道を切り開いた」と話す。

 演説の後、原爆の非人道性を非難する国際世論が次第に高まり、1996年には国際司法裁判所が「核兵器の使用は一般的に国際法違反」とする勧告的意見を出した。しかし、核保有国は段階的な軍縮にこだわり、核廃絶の道筋は見通せなかった。

 「なぜ核兵器を禁止する条約に絞って議論しないのか」。山口さんが生前、いら立っていたのを、長崎原爆被災者協議会副会長の横山照子さん(75)は覚えている。「条約が採択され天国で狂喜しているでしょう。核兵器の禁止こそ彼が命を懸けて成し遂げようとしたことだから」

最終更新:7/9(日) 9:30
長崎新聞