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神々の島に築かれた、洲本八景を望む城

7/10(月) 19:10配信

朝日新聞デジタル

 神戸から明石海峡大橋を渡ると、瀬戸内海最大の島、淡路島に着く。淡路島は自然と文化が融合し、神々が宿る神秘の島。『古事記』『日本書紀』の冒頭を飾る「国生みの神話」によれば、世界で最初に創造された島とされる。悠久の彼方へと誘われるような、不思議な感覚に陥る場所だ。

【写真】標高133メートルの山頂北側に本丸を置く

 淡路島の中部西から南東に位置する、洲本市へと向かう。目指すは、洲本市の東端、標高133メートルの三熊山に築かれた洲本城だ。三熊山は瀬戸内海国立公園に属し、紀淡海峡(紀州と淡路島間の海峡)を一望できる景勝地。青く美しい大阪湾を望むこの地には、今は穏やかな時間が流れるばかり。しかし、戦国時代から江戸時代にかけては、淡路国の拠点となる山城があった。

 洲本城は、戦国時代の山城と江戸時代に築かれた山麓の平城に分かれる。洲本市立淡路文化史料館、裁判所、税務署が建っているのが、平城の居館跡だ。1642(寛永19)年には、山麓の平城へ政庁機能が移されたとみられている。

 山城へは車でも行けるが、史料館からほど近くの登城口から登れば、所要時間は徒歩20分ほどだ。てくてくと歩けば、絶景と石垣が待っている。東西800×南北600メートルに及ぶ広大な城は保存状態もよく、国の史跡に指定されている。山頂北側に置かれた本丸を南の丸が囲み、東に東の丸、東下段に武者溜、南下段に馬屋を置く構造で、南の丸の西側には籾蔵、その西に西の丸が独立する。

 洲本城のはじまりは、16世紀初頭にさかのぼる。築いたとされるのは、熊野水軍の頭領であった三好氏の重臣、安宅氏。由良城を本拠地とし、島内に築いた支城のひとつが洲本城だった。

 1581(天正9)年、織田信長配下の羽柴秀吉が淡路島に侵攻を開始すると、翌年に開城。本能寺の変を経て、秀吉によって仙石秀久が淡路島の諸城を支配した。四国攻めに備えた水軍城として、秀久が洲本城に石垣の築造を開始。1585(天正13)年の四国攻めでは、秀吉の実弟・羽柴秀長が3万の軍勢を引き連れて洲本城に入城し、四国を目指している。

 同年、転封となった秀久に変わり3万石で城主となったのが、脇坂安治だ。安治は城を整備し、水軍の編成も強化。城内に残る石垣の大半は、安治時代に積まれたものだ。

 淡路の水軍を吸収し、脇坂水軍を再編成した安治は、秀吉配下の家臣として、洲本城から九州攻めや小田原城攻めに出陣し活躍している。1592(文禄元)年からの文禄・慶長の役にも、水軍の将として従軍した。安治を筆頭に、洲本城の歴代城主は水軍の将なのである。

 現在でも、南側の馬屋からは紀淡海峡が見下ろせる。右は明治政府により堡塁砲台が築かれた由良、左は友ヶ島。この地に立ったなら、洲本城が水軍基地として機能していたことがわかるはずだ。大阪湾に面する洲本港には、幕末には炬口砲台も構築された。

 東の丸の東面に積まれた高く長い石垣は、海に備えたものなのだろう。最前線として、南の谷まで延々と続く。城としての軍事的側面だけでなく、水軍基地としての機能を連想させられるつくりだ。大手(正面)は、南に向く。紀淡海峡や大阪湾の海上を睨み、いざとなれば海峡を通って諸国に討って出る構えだ。出入口の堅固さも見事で、とくに中心となる本丸周辺は厳重に守られている。

■洲本城
高速バス「洲本バスセンター」から徒歩約10分
0799-24-3341(洲本市立淡路文化史料館)

(文・写真 城郭ライター 萩原さちこ / 朝日新聞デジタル「&TRAVEL」)

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