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「投げ銭の最高額は78万円」伝説の大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎の聖と俗 「警察には78回くらいお世話に」

7/15(土) 7:00配信

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 半世紀近く街頭で踊り、観客からの投げ銭を頼りに暮らしてきたというギリヤーク尼ケ崎さん。パーキンソン病や脊柱管狭窄症の症状と闘いながら、80歳を超えるいまも街頭に立ち続けています。被災地やテロ現場で「祈りの踊り」を舞う一方で、「投げ銭を数えるのが楽しみ」と言ってはばからない一面も。聖と俗をあわせ持つ、伝説の大道芸人の素顔に迫りました。(朝日新聞記者・神庭亮介)

【写真】踊りのためには歯さえ抜く! 全身大道芸人、ギリヤーク尼ケ崎の人生

初めての街頭は「右翼と学生と僕の三つどもえ」

 ――初めて街頭で踊ったのは。

 1968年の10月、38歳の時でした。銀座の数寄屋橋で学生さんが「○○反対!」と叫んでいて、もう一方では右翼の赤尾敏さんが演説していた。右翼と学生と僕の三つどもえ(笑)。赤尾さんの演説は浪花節の語りみたいで面白いの。

 タバコ売り場の前にベンチがあって、ここでやればいいやって。学生運動もやってるし、自由だろうと思ったわけ。200人以上は集まったかなあ。もうね、黒山の人だかり。その場でメイクを始めたものだから、何者だろうと思ったんじゃない? 若い女の子たちが、火星人でも見るような感じで目を輝かせてましたね。

 竹筒でつくった喜捨箱を置いておいたら、女子高生の2人組が恥ずかしそうに50円玉を入れてくれた。うれしくて泣けてきたね。あれがあったから、いままで50年近くやってこられた。あの時の女子高生も、元気でいればいま60代ぐらい。もう一度、会ってみたいなあ。

 ――38歳という年齢で街頭に踏み出すことに、迷いや葛藤はありませんでしたか。

 悩みましたよ。21歳で映画俳優を目指して北海道から上京したの。親には「英語の通訳になる」なんて言ってね。でも、函館弁のなまりが強くて、うまくいかなかった。それから舞踊研究所に入って、3年ぐらいで辞めて。

 10年もいたら、先生の型と同じ踊りしかできなくなっちゃう。絵描きさんは自分の描きたい絵を描くでしょ。創作舞踊も自分で創作するものだから、1人の方がいいやと思ったの。芸術っていうのは自分。自分の感情を自分で見つめて、自分で表現するしかない。自分一代だけの踊りを、一生掛けて掘り下げるんです。

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最終更新:7/18(火) 15:57
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