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17日は森孝慈さんの七回忌 今のサッカー界をどう見ているか

7/15(土) 11:00配信

スポニチアネックス

 【大西純一の真相・深層】サッカーの日本代表監督や浦和レッズの監督を務めた森孝慈さんが亡くなって6年。7月17日が七回忌だ。

 森さんは1981年に日本代表監督に就任、82年W杯スペイン大会予選、84年ロサンゼルス五輪予選に続いて86年W杯メキシコ大会予選を戦った。いずれも予選突破は果たせなかったが、W杯メキシコ大会予選は最後の韓国とのホーム&アウェーの決戦で「勝った方が本大会出場」というところまで行った。第1戦は国立で1―2、第2戦は0―1で韓国に連敗し、W杯出場を逃した。

 森さんは当時、韓国と対戦して「日本の限界」を痛感していた。韓国は1983年にプロリーグ「韓国サッカースーパーリーグ」(現Kリーグ)を設立した。日本はまだアマチュアで、読売クラブなどを除いて大半の選手は会社員。午前中は仕事をし、午後から練習。現役引退後は定年まで社員として雇用が保障されている状況で、韓国と互角に戦うのは無理だと感じていた。監督も同様で、企業からの出向で、戻るところがあるのでは説得力がないと考え、森さんは何度も「日本代表監督のプロ化」を訴えた。だが、日本サッカー協会に拒否されてW杯メキシコ大会の予選後に辞任した。

 森さんは常に人のことも考えてくれた。初めて取材したのは81年に監督に就任した直後、駆け出し記者だった私があいさつを兼ねて取材に行くと、岸記念体育会館内にあった日本サッカー協会のいちばん奥の机で応対してくれた。小ネタもくれて、駆け出し記者にしては上出来の記事を書かせてもらった記憶がある。メキシコ五輪の銅メダルの写真を探していた時も、森さんがわざわざ自宅から銅メダル(もちろん本物)を持ってきて写真を撮らせてくれた。記者への気配りは、歴代の日本代表監督の中でも群を抜く。

 森さんがいたから日本のサッカーがプロ化へ向かっていったことはまちがいない。W杯予選で圧勝できない日本代表や、アジアで勝ち上がれないJクラブを森さんはどう見ているだろうか。ぜひ聞いてみたいものだ。 (専門委員)

 ◆大西 純一(おおにし・じゅんいち)1957年、東京都生まれ。中学1年からサッカーを始める。81年にスポニチに入社し、サッカー担当、プロ野球担当を経て、91年から再びサッカー担当。Jリーグ開幕、ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、W杯フランス大会、バルセロナ五輪などを取材。