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Intelに「世界初」のプロセッサ開発をもたらした日本企業

7/18(火) 12:31配信

Impress Watch

 世界初のマイクロプロセッサ「4004」をIntelが1971年に開発したことは、PCや半導体の世界では常識である。Intelの本社オフィス(米国カリフォルニア州サンタクララ)の一角に存在する博物館「Intel Museum(インテルミュージアム)」でも、「4004」の展示コーナーが設けられている。展示内容については本コラムの『Intelの歴史を「インテルミュージアム」から振り返る【4004プロセッサ編】』ですでに説明したとおりだ。

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 しかし「インテルミュージアム」の展示物やIntelの公式な資料(たとえば「4004」の発明40周年を記念したWebサイト)からは、「4004」の開発を巡る紆余曲折は見えてこない。そこで今回からは、「4004」の開発を巡るドラマ(紆余曲折)を、少しだけ説明したい。なお時代背景(1970年前後)を考慮し、数値計算を目的とする比較的小型の製品を「計算器(calculator)」と呼称し、大型の筐体に大規模なロジックと大容量のメモリを格納した高速計算を目的とする製品は「メインフレーム」あるいは「コンピュータ(computer)」と呼んで区別している。また人物名の敬称を略しているので、ご容赦願いたい。

■インテルミュージアムとIntelの公式説明には「開発ドラマ」がない

 本コラムの『Intelの歴史を「インテルミュージアム」から振り返る【4004プロセッサ編】』で述べたしたように、インテルミュージアムでは「1969年に、日本計算器販売(注:1970年に「ビジコン」に社名を変更)が12種類(注:正しくは8種類で12個)のカスタムチップを設計することでIntelにコンタクト(原文はapproached)してきた。12種類のカスタムチップは、日本計算器販売が新しく開発するプリンタ付き計算器「Busicom 141-PF」に使われる。これに対してIntelの技術者は、新規の設計案を提示した。それは、4個の半導体チップで構成されるファミリである。その1つが、プログラムによってさまざまな用途に使えるチップ(注:明示していないが「4004」のこと)である。(以下略)」と「4004」の開発経緯が説明されている。

 この説明パネルは、ビジコンがカスタム半導体の設計をIntelに依頼したことがきっかけとなって「4004」プロセッサファミリが誕生したことを示している。しかし説明そのものは、かなり物足りない。少なくとも3つの不満が湧き上がってくる。

 1つは「日本計算器販売(ビジコン)」とはどのような企業であるのかが、良くわからないこと。もう1つは、ビジコンがIntelを選んだ理由が説明されていないこと。3つ目は、カスタムチップの設計を依頼した開発案件が、なぜか、4004プロセッサの開発案件に変貌してしまった経緯がわからないことだ。本稿でははじめの2つの不満に答えていく。3つ目の不満に対する答えは説明にかなりの分量を必要とするので、本コラムの次回以降に説明したい。

■謄写版印刷から貿易で財を成した小島和三郎がはじまり

 「日本計算器販売(ビジコン)」とは、どのような企業なのだろうか。「日本計算器販売」という社名からは、計算器の販売会社のように見える。それは誤りだ。同社はコンピュータの販売会社であるとともに、カルキュレータ(計算器)の開発・製造・販売会社でもあった。1960年代後半の主力事業は2つ。三菱電機のメインフレーム「MELCOM」シリーズの販売と、独自開発による手回し式卓上計算器の製造と販売である。とくに手回し式卓上計算器では、日本市場をタイガー計算器と2分するほどの大手メーカーだった。

 日本計算器販売(ビジコン)のはじまりを辿ると、大正時代にまで遡る。謄写版(ガリ版)印刷機の開発者として知られる堀井新治郎が興した日本最大の謄写版会社「堀井謄写堂」で、中国貿易部門を担当していた小島和三郎が大正時代に独立したことがはじまりである。現代と違って複写機(コピー機)のない時代に、コストが低くてシンプルな簡易印刷は、企業や役所などには欠かせないものであった。その簡易印刷の代表、と言うよりも簡易印刷そのものとして知られていたのがガリ版刷りで、正式には「謄写版印刷」と呼ぶ。その日本最大手である堀井謄写堂は、今でいうと複写機メーカーのキヤノンやリコーなどに相当する役割りを担っていた。

 小島和三郎は、「堀井謄写堂」創業者の後継ぎである2代目の堀井新治郎の妻の妹を配偶者としたように、創業家である堀井家とは非常に近い関係にあった。その小島和三郎が結婚をきっかけとして堀井謄写堂を辞めて独立し、中国(旧満州)の奉天に貿易商社「昌和洋行」を設立した。これが大正7年(1918年)のことである。「昌和洋行」の最初の役割りは「堀井謄写堂」の謄写版事業を中国で展開することにあった。

 「昌和洋行」、後の「昌和商店」は謄写版だけでなく、手動タイプライター、電動タイプライター、手回し計算器などの事務機器を手広く扱い、急激に成長していった。それだけでなく、自転車の製造と販売、オートバイの製造と販売をはじめる。とくに自転車は、中国で初めての自転車メーカーだったらしい。

 小島和三郎は計算器に強く興味を持っており、昭和17年(1942年)には手回し計算器の製造・販売会社「富士星計算器製作所」を設立する。手回し計算器の大手メーカーであったタイガー計算器の元技術者を採用し、手回し計算器の開発にも乗り出した。富士星計算器製作所は昭和20年(1945年)に「日本計算器」に改称する。

 小島和三郎が率いる事業集団は「財閥」とも呼べる規模に成長していく。その中で大正13年(1924年)に和三郎の息子として生まれたのが、後にビジコンの社長となる小島義雄である。小島義雄は戦後に日本計算器の入社する。小島和三郎の一族はほかに、オートバイ製造会社「昌和製作所」を率いていく(昌和製作所は経営悪化により、昭和35年(1960年)にヤマハ発動機に吸収される。このとき小島一族は昌和製作所から離れることなる)。

■「日本計算器販売(ビジコン)」の誕生と小島義雄の社長就任

 敗戦によって日本に引き揚げた小島一族は、引き続き、事業を継続していく。昭和32年(1957年)には、昌和商店の計算器販売部門が「日本計算器販売」として独立する。小島和三郎の息子である小島義雄は、昭和25年(1950年)に京都大学を卒業して日本計算器に入社していた。そして日本計算器販売(ビジコン)が独立して3年後の昭和35年(1960年)には、同社の社長に就任する。その4年後の昭和39年(1964年)には日本計算器の社長にも就任し、両社の社長を兼務する。

 日本計算器と日本計算器販売の資本関係は良くわからない。何らかの関係はあったものと見られる。名称からは日本計算器が本体で日本計算器販売はその販売会社、というイメージがある。実態はその逆で、日本計算器販売が本体、日本計算器は開発と生産の担当会社という役割分担だったようだ。

 小島義雄は進取の気性に富んだ人物で、新しい技術を積極的に取り込んだ製品を相次いで開発していく。1960年代後半(昭和40年代前半)から1970年代前半(昭和40年代後半)にかけて、「計算器業界の風雲児」とでも呼べる開発成果を挙げていった。

■世界で初めての電子式卓上計算器を日本に輸入

 ビジコン(注:以降は「日本計算器販売」をビジコンと表記)は機械式卓上計算器(手回し卓上計算器)の大手販売会社であるとともに、電子式卓上計算器の将来性にいち早く気付いた会社でもあった。

 昭和35年(1960年)にビジコンの社長に就任した小島義雄は翌年、欧州の事務機器業界を視察するために、出張する。昭和36年(1961年)10月に英国ロンドンで開催された見本市「Business Efficiency Exhibition」に出品されていた、とある計算器に小島は注目する。これこそが世界で初めての電子式卓上計算器「Anita Mark 8(アニタ・マーク8)」だった。

 「アニタ・マーク8」は12桁の四則演算を実行可能な卓上計算器で、ロジックを真空管とガス放電管で構成していた。1960年当時の計算器は、機械式(手回し式あるいは歯車式)と電動式、リレー式であった。これらの方式に共通の問題は「騒音」である。とくに電気モーターによって歯車を回転させる電動式計算器の騒音は酷く、計算動作中に人間は近くにいられなかったほどだという。また卓上計算器ではないが、リレー式のメインフレームには、納入先で騒音のために深夜の稼働を禁じられたというエピソードがある。

 これに対して電子式では、原理的に騒音がまったく出ない。無音である。「アニタ・マーク8」はの将来性には日本の卓上計算器開発者の多くが注目した。ビジコンは「アニタ・マーク8」の輸入販売を手がけるとともに、改良版となる電子式卓上計算器を開発する。それが磁気コアメモリを搭載した電子式卓上計算器「Busicom 161」である。

■プログラム内蔵方式の電卓を嶋正利が設計

 昭和41年(1966年)7月に発売された電子式卓上計算器「Busicom 161(ビジコン161)」は、磁気コアメモリの採用によって高い性能と低い価格を両立させた驚異的なな製品だった。価格は298,000円で、競合する電子式卓上計算器(電卓)に比べると価格は15万円近くも安く、しかも性能では上回っていた。「Busicom 161」は大ヒット商品となり、ビジコンは電卓業界にその名前を轟かせた。

 勢いづくビジコンは続いて、新しいアーキテクチャの電卓開発に取り掛かる。プログラム内蔵方式の電卓である。『Intelの歴史を「インテルミュージアム」から振り返る【4004プロセッサ編】』で説明したように、それまでの電卓はハードワイヤード方式で設計・製造されていた。ソフトウェアのプログラムを内蔵する方式はメインフレームですでに活用されていたので、そのアーキテクチャを電卓に取り込んだ。

 ビジコンにとって初めてのプログラム内蔵方式電卓「Busicom 162P」を設計したのが、昭和42年(1967年)にビジコンに入社した嶋正利である。昭和43年(1968年)に入社2年目の嶋は「Busicom 162P」の開発に取り組み、試作品を完成させる。残念なことに、「Busicom 162P」が発売されたのかどうか、発売されたとして売れ行きはどうだったのか、といったことはわからなかった。

 ビジコンは「Busicom 162P」の開発を経て、プログラム内蔵方式電卓を専用集積回路(カスタムIC)によって高性能化および低価格化することを決定する。半導体の開発を委託する相手は米国の半導体メーカーだと、ビジコン社長の小島義雄は考えた。半導体技術では日本よりも米国が進んでいたからだ。

 このときビジコンの小島社長は、2種類の電卓を開発するプロジェクトを並行して進める。1つはプリンタ付きの高性能電卓(プログラム内蔵方式電卓)であり、もう1つは小型化と低価格化を追求した携帯型電卓(ワンチップ電卓)である。前者に向けた半導体の開発パートナーはIntel、後者に向けた半導体の開発パートナーはMostekと決まった。ビジコンとIntelが正式な共同開発契約を結ぶのは昭和45年(1970年)2月6日、ビジコンとMostekが正式な共同開発契約を結ぶのは同年6月16日のことである。

■ワンチップ電卓とプロセッサ電卓を相次いで完成させる

 正式な契約はIntelが4カ月ほど早かったが、共同開発の完了はMostekとのプロジェクトが早かった。正式契約からわずか半年で、携帯型電卓用ワンチップIC「MK6010」が完成する。昭和46年(1971年)1月、Mostekと共同開発したICを搭載した携帯型電卓「Busicom LE-120A」をビジコンは発表する。この電卓は「てのひらこんぴゅうたぁ」の愛称とともに盛んに宣伝され、ヒット商品となった。

 Mostekに遅れることおよそ3カ月。Intelと共同開発した「4004」を含むチップセットが完成する。昭和46年(1971年)4月にはプリンタ付き電卓「Busicom 141-PF」の試作品でビジコンが動作を確認。同年10月に販売をはじめる。自社ブランドのほか、OEMとして米国と欧州に販売された。

【お詫びと訂正】初出時に、「昭和46年(1971年)1月にはプリンタ付き電卓「Busicom 141-PF」の試作品でビジコンが動作を確認」としておりましたが、正しくは4月となります。お詫びして訂正させていただきます。

 小島義雄が率いるビジコンは次々と斬新な製品を開発していったのだが、唐突に終わりが訪れる。1971年8月にニクソンショック(ドルショック)が起こり、円が切り上がり、輸出量が減少するとともに海外での売上高(円換算値)が為替差損によってさらに減ってしまう。そして1973年10月に石油ショックが発生し、ビジコンは資金繰りに窮する。

 翌年のはじめ、1974年2月28日にビジコンは2回目の不渡り手形を出し、倒産する。開発・生産工場である日本計算器は同日、会社更生法の適用を申請する。会社更生法に基づく更生開始が同年6月に裁判所によって決定され、日本計算器は「ビジコン」と名称を変えて生き残る。小島義雄は新しい「ビジコン」でも社長を務めるが、カルキュレータとコンピュータを手がけることはなかった。

■Intelのロバート・ノイスに惚れ込んだビジコンの小島社長

 「インテルがまだ小さかった頃、後のインテルの看板となるプロセッサ事業の計画は日本のビジコンから転がり込んできた」(奥田耕士、「インテルがまだ小さかった頃」、日刊工業新聞社、62ページ)、という表現はやや正確さに欠けるものの、ビジコンの重要な役割りを簡潔に表わしている。ビジコンがIntelに半導体の開発プロジェクトを持ちかけなかったら、Intelでこの時期に世界初のプロセッサが生まれることはなかっただろう。

 ビジコンがIntelを選んだ理由は大きく、3つあったようだ。1つはIntelの最高経営責任者(CEO)を務めていたロバート・ノイス氏が1968年に日本の顧客候補を回って半導体メモリの将来性を説いて回り、顧客候補の1社であるビジコンの小島社長がノイスに惚れ込んだことだ。

 NHKのスペシャル番組「電子立国 日本の自叙伝」でインタビューを受けた小島義雄氏は以下のように語っている。「ドクター・ノイスの訪問を受け、彼のセミコンダクターメモリに対する情熱に触れまして、大変感銘を受けました。それでソフトオリエンテッドな電卓をつくるならばこの人と組もうと、すなわちストアードプログラミング方式の電卓をつくるならば、セミコンダクターメモリの普及を自分の使命にしているドクター・ノイスと組もうと、私は決めたのです」(相田洋、「電子立国日本の自叙伝[完結]」、日本放送出版協会、84ページ)。

 もう1つは、Intelが多結晶シリコンゲートのMOSプロセス技術を保有してたというものだ。当時のMOSプロセスはアルミニウムの金属ゲートが主流であり、性能と密度の向上には限界が見えていた。将来性があるのは多結晶シリコンゲートであることはわかっていたものの、製造が難しかった。多結晶シリコンゲートのMOSプロセスでICを量産できる数少ない企業がIntelである。「4004」プロセッサの設計者である嶋正利はいくつかの回顧録で、上記の理由を述べている。

 3つ目の理由は、ビジコンが米国の半導体企業を調査した結果、IntelとMostekを選定したことから始まる。この2社の中でROMを製造していたのはIntelだけである。ビジコンが考えていたプログラム内蔵方式の電卓はプログラムをROMに格納することを想定していたので、Intelを選んだという。

■セットメーカーと半導体メーカーの共同開発に常在するギャップ

 いくつかの理由からビジコンはIntelに開発を持ちかけ、資金繰りに不安を抱えていたスタートアップ企業のIntelは、ビジコンの依頼を引き受けた。カスタム半導体の開発では、顧客(ビジコン)が半導体メーカーに手の内をさらけ出すことはないし、また、開発を受託するサプライヤー(Intel)もすべてのカードを見せているわけではない。これはビジコンとIntelの共同開発プロジェクトに限ったことではなく、日本のセットメーカーが日本の半導体メーカーにカスタム半導体の開発を依頼したり、マイコンのカスタマイズを要請したりするときも同じだ。

 当然ながらそこには、行き違いが生じる。その行き違いを埋めようとする努力の産物が、世界で初めての汎用マイクロプロセッサ「4004」だった。その紆余曲折は、本コラムの次回以降で少しだけ詳しく述べたい。

 なお、本稿の作成では以下の文献を参考にした。嶋正利氏の回想「マイクロプロセッサ4004の開発」、嶋正利氏の1997年京都賞受賞記念講演「私とマイクロプロセッサ―初めに応用ありき、応用が全てである」、奥田耕士著、「インテルがまだ小さかった頃」(日刊工業新聞社、2000年1月初版)、佐野正博(明治大学経営学部)の論文「マイクロプロセッサ-Intel4004の製品開発プロセス」、相田洋著、「電子立国日本の自叙伝[完結]」(日本放送出版協会、1992年5月第1発行)、大崎眞一郎のウエブサイト「電卓博物館」から「ビジコン社の歴史」、ビジコンの元技術者である塚本勝氏の個人Webサイトから「ビジコン全製品」。いずれも重要な歴史的資料である。これらの著者には、個人的に深く感謝したい。

PC Watch,福田 昭

最終更新:7/18(火) 17:07
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