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「ゾンビ」がショッピングモールに集まる深い理由

7/25(火) 9:12配信

ITmedia ビジネスオンライン

 先週、「ゾンビ業界」を揺るがす大きなニュースがかけめぐった。

 映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』などで今の「ゾンビ像」を世に定着させたジョージ・A・ロメロ監督が亡くなったのである。

【なぜゾンビ映画でショッピングモールがよく舞台になるのか】

 そんなマニアックなニュースは知らねえよ、という方も少なくないだろうが、実は「ゾンビ」は日本経済的にも決して無視できない存在になりつつある。

 例えば、カプコンの『バイオハザード』は1996年に第1作発売以降、20年を経ても世界中に多くのファンがおり、シリーズタイトルは116、総販売量7700万本(2017年3月現在)を超え、映画など関連ビジネスも多岐にわたっている。

 ハロウィーンイベントにおける「ゾンビ仮装」の人気も高まっている。火付け役のUSJでも、リアルなゾンビが襲撃してくる「ホラーナイト」は毎年大盛況。2016年からは、千葉県の稲毛海岸でゾンビと鬼ごっこをするイベントまで登場している。

 これまで日本でゾンビ映画はマニアックな一部ファンにしかウケなかったが、2016年に公開された大泉洋さん主演の『アイアムアヒーロー』は興行収入16億円のヒットとなった。

 また、米ケーブルテレビ史上最高視聴率記録を次々と塗り替えている『ウォーキング・デッド』が日本でも人気となっているなかで、2019年にはブラッド・ピット出演映画のなかで最もヒットした『ワールド・ウォーZ』の続編も公開される予定だ。このようなトレンドを踏まえれば、日本のゾンビ市場は今後も順調に成長していくことが予想されるのだ。

 そう聞くと不思議に思うのは、なぜここにきて、ゾンビに魅せられる人が増えてきたのかということだろう。ネット上でも、「ゾンビが大量発生したらどう生き残るか」なんてことを真面目に論じている方も少なくない。

 1つは「感染に対する恐怖」にあることは明らかだ。

 ご存じのように、ゾンビにかまれた人はゾンビになるというのが基本ルールだ。鳥インフルエンザが猛威をふるった2005年や、新型インフルエンザが世界的に大流行した09年から、日本ではパンデミックという「恐怖」が一気に広まった。先ほどの『アイアムアヒーロー』(09年より原作漫画連載開始)も、「ZQN」(ゾキュン)と呼ばれる「感染者」が次々と人々をかんで、バンデミック的に世界中がゾンビ化していく物語である。

 ただ、個人的にはそのような「潜在的恐怖」もさることながら、冒頭で紹介したゾンビ映画の父・ロメロ監督が世に伝えた「メッセージ」がここにきてようやく日本人にもピンとくるものとなったからではないか、と思っている。

 それは、ゾンビとは実は「今を生きている我々の姿」だというメッセージである。

●なぜショッピングモールが舞台なのか

 「は? なにワケのわかんないこと言っちゃってんの?」と言う方のために分かりやすい例を挙げよう。それはゾンビ映画というと、お約束のように登場する「ショッピングモール」だ。

 生存者が逃げ込こむと、だいたいショッピングモールには無数のゾンビが徘徊(はいかい)していて、死闘が繰り広げられるという展開だ。映画ファンならば常識だが、この流れをつくったのは他でもないロメロ監督が1978年に公開した『ゾンビ』(原題DAWN OF THE DEAD)である。

 では、なぜロメロ監督は、舞台をショピングモールにしたのか。そんなもん食料とかたくさんあるのでストーリー的に納得感があるからでしょ、と思うかもしれないが、それだけではない。

 実はロメロ監督がつくりだしたゾンビの特性として、「生きていた時の習慣が残っている」というものがある。死人となって人間としての理性はないものの、体に染み付いている生活習慣がそのままあらわるという設定なのだ。

 それを踏まえると、理性を失った生きる屍がショッピングモールを目指して、あてもなく徘徊する描写が、何を意味しているか見えてこないか。休日になると何をするわけでもなく、ショッピングモールにやって来て、食事をしたり買い物をしたりして1日を過ごす我々現代人の姿とゾンビはほとんど変わらない。

 そう、ロメロ監督は「ショッピングモールのゾンビ」で、過剰消費社会を痛烈に皮肉っているのだ。

 ゾンビ映画の生存者たちは、生き残るためにゾンビをやっつけるだけではなく、時に他の生存者と食料や武器を奪い合うなど醜い争いを繰り広げるのが定番である。

 カラッポの頭でショッピングモールをさまようゾンビと、生き残るためには「共食い」も行う生存者、果たしてどちらが「人間らしい」と言えるのか、と映画『ゾンビ』は我々に問いかける。ロメロ監督のゾンビ映画は、恐ろしいモンスターが現われて、血しぶきブッシャーといったホラーではない。ゾンビによって浮かび上がるこの社会の不条理に対して、我々がどう立ち向かうのかという「人間ドラマ」を描いているのだ。

●「生きる屍」をめぐる人間ドラマを描く

 映画『ゾンビ』とともに、後の映画人に多大な影響を与えたゾンビ3部作のひとつ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ではベトナム戦争を連想させるような「人間の醜さ」、『死霊のえじき』(原題DAY OF THE DEAD)では当時のレーガン政権下、「右傾化」した米社会への警鐘が込められている、とも言われている。

 また、2005年の『ランド・オブ・ザ・デッド』では、ゾンビと生存者の戦いを描きつつ、そことは無縁の富裕層も登場。「格差社会」を批判するだけでなく、これまでのように人間の「敵」とされてきたゾンビ側の苦しみにも理解を示すようなストーリーとなっている。これを9.11以降に始まった「テロとの戦い」に対する違和感のあらわれだとみるファンも多い。

 なぜ醜い姿をした死人の群れであるにもかかわらず、我々はゾンビの存在に魅せられるのかというと、そこに直視したくないが、認めざるを得ない「時代の現実」が投影されているからだ。

 そんなの考えすぎだろ、という声が聞こえてきそうだが、ここ最近の日本社会では、あてなくさまようゾンビの姿とピタッとハマる「時代の現実」が山ほどあふれている。

 その代表が、「社畜」である。

 実は社畜という概念自体はバブル真ただ中の1990年に生まれた。当時は「リゲイン」のCMで歌われたような「24時間戦えるジャパニーズビジネスマン」という意味合いで、そこまでネガティブな言葉ではなかった。絶対的な滅私奉公を強いられるものの、それに見合うだけの対価も得られたということもあったかもしれない。

 しかし、この「失われた20年」を経て、ブラック企業問題が注目されるにつれ、現在のように悲壮感漂う「搾取される一方の奴隷的労働者」という概念へと変わっていた。

 このような社畜のマイナスイメージが定着していくのと歩調を合わせるように、コンテンツとしてのゾンビの人気は高まっていく。

 これは、理性なくただ街を徘徊する「生きる屍」の姿が、働く目的や生きる意味を見失いながらも満員電車に揺られて、社内を徘徊する我々の姿と妙に重なってきたからではないのか。つまり、「日本は世界一豊かな社会だと言いながら、実は我々は『奴隷』にすぎない」という「時代の現実」が浮かび上がってきたのではないか。

●次につくられるゾンビ映画の舞台

 実はゾンビのルーツはハイチにある。亡くなって埋葬された者が土から這(は)い出てきて蘇ったという「伝説」がもとになっている。

 かつてハーバード大学の人類学者がこの伝説を調査したところ、ハイチの秘密結社が、規律に従わないメンバーに「罰」としてフグの毒、テトロドトキシンなどを配合した「ゾンビパウダー」を体のすり傷などにこすりつけていたことが分かった。

 このゾンビパウダーをかけられた者は仮死状態に陥る。埋葬されたところで、蘇生するがハイチ社会的には「死人」という扱いとなる。これで秘密結社は、この蘇った者を「人」ではなく「死人」として好きなように扱っていたという。

 つまり、ゾンビとはもともと人間の醜い争いが生み出した「奴隷」だったのだ。

 そう考えると、社畜という名の奴隷が悲鳴をあげるこの社会で、ゾンビ映画の人気が出てきているのも妙に納得してしまう。

 ただ、残念ながらロメロ監督のように日本社会の問題を鋭くえぐったような和製ゾンビ映画はない。そこで提案だが、そろそろ日本でもオフィス街を舞台としたゾンビ映画をつくったらどうだろう。

 生前の習慣から、帰宅することなく延々とオフィスに居残り続けるゾンビの群れのなか、パワハラ上司と部下が生き残るために醜い争いを繰り広げる。

 「社畜」と「ゾンビ会社員」、人間らしいのは果たしてどっちだ――。

 ヒットするかどうかはお約束できないが、ロメロ監督が草葉の陰で笑ってくれるのは間違いない。

(窪田順生)