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米国の公民権運動に参加、平等の尊さ実感 那覇出身のマティさん 歴史継承に努める

7/25(火) 13:35配信

沖縄タイムス

 【ウトゥ・カカジ通信員】バスやレストラン、プールからお手洗いまで、白人と黒人を区別する人種分離制度(ジム・クロウ法)がかつてアメリカに存在した。差別撤廃を訴える公民権運動の最盛期1950~60年代に、自ら市民として闘う青春時代を過ごした沖縄生まれの女性がいる。米東部のメリーランド州に住むマティ・ヘイズさん(67)=那覇出身=だ。現在もその人権擁護運動の遺産を引き継ぐべく、差別法が撤廃されるまで存在した黒人専用学校の歴史を伝える活動をしている。

 マティさんはメリーランド・エリコット市に復元された「カラード・スクール(有色人種専用学校)」でボランティアガイドをしている。始めて10年余りになるという。

 49年、那覇で生まれた。黒人部隊として沖縄戦に送られ、その後駐留軍として沖縄に残った父・ロビンソンさんと米軍基地内で働いていた母・ハル子さん(旧姓・与那覇)との間に長女として生まれた。「黒人専用の食堂で働くことになった母は、南部の農家出身で大好きなビスケット(重量感あるパン)を『もっとくれ』と催促する占領兵の父に『一人1個が規則。それ以上あげられません』と言い張った。困った父は上司に訴えて、配給量を増やしてもらったのよ」。両親の出会いのきっかけを笑いながら語る。

 一家は数年後沖縄を発ち、ドイツ駐留を経て50年代半ば、メリーランド州に落ち着いた。米首都から北上して約1時間の郊外市だ。

 多感な思春期を迎えたマティさんは「服を買いに行っても黒人ということで試着さえさせてもらえなかったのよ」と話す。「それでもユダヤ人経営の店は『ほら、こっちへ来て試着しなさいよ』と言ってくれた」と当時、黒人とユダヤ人に連帯意識が存在したことをありありと語る。主流メディアで見過ごされがちだった、南部以外にも存在した差別やローカルな運動の生き証人の一人と言えるだろう。

 「緊迫する日々が続き、路上での抗議運動や店へのボイコットなどで明け暮れた。状況が一変したのが18の頃。その時は本当にうれしかったわ」。ほほ笑む顔には、平等権を勝ち取ってきた市民の一人としての自信と余裕がうかがえる。

 現役時代の仕事は、航空宇宙局(NASA)でのサテライトの組み立てをしていた。引退後、アート(クラフト)ストアに勤めた後、現在はキットを使って着物の縫い方を教えたりもしている。

 大好きだった母は3年前に亡くなった。外見よりも教育を重んじる母だった。「英語はあまり話さなかったけど、父からも、父の親戚家族からも愛され尊敬されていた」。死別するまで32年間一緒だった夫(マティさんの父)と10人の子に恵まれ、家族を宝のように大事にする人だったという。

 「時代は変わり沖縄でも差別が減り、ヒップホップ系の近代的な黒人音楽と文化も人気があると聞く。それはそれで良いと思うけど、これらの文化は私たち世代にとってはほとんどなじみがないもの。気になっているのは沖縄で知られるアメリカ人、特に黒人を表象する人たちが軍人、男性ばかりであること。軍社会はアメリカの一部でしかない。アフリカ系米国人の女性には、強くてすてきな一般の人々がいっぱいいる。このような女性たちのことをもっと知ってもらえたらと思う」と締めくくった。

最終更新:7/25(火) 13:35
沖縄タイムス