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後に知った恩師の涙 日産野球部休部から再出発した左腕の「第2の野球人生」

7/26(水) 10:30配信

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都市対抗10年連続出場、左腕・秋葉が抱く久保監督への感謝の思い

 NTT東日本の優勝で幕を閉じた都市対抗野球大会。今大会では6選手が10年連続出場の表彰を受けた。その中の一人、JR東海の秋葉知一投手(34、今大会はホンダ鈴鹿の補強として出場)は、特別な思いを胸に抱いていた。

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 2005年に日産自動車野球部(2009年休部)に入部。しかし、入部から3年間は全く試合に出られない日々が続き、初出場は4年目の2008年だった。日産自動車は2005年、2006年の都市対抗で2年連続準優勝に輝いたが、この2年間、秋葉は東京ドームのグラウンドに立つことさえできなかった。

「準優勝に輝いた2年は、裏方の仕事をしていました。決勝戦の試合前、選手が整列して挨拶をする姿をベンチ裏の小さい窓から見ていました。30メートル先には、いつも一緒に練習しているメンバーがいるのに、そこに行くことが許されない。みんなはユニフォームを着ているのに、僕はジャージでした。本当に悔しかったです」

 秋葉は当時をこう振り返る。

「来年こそは東京ドームのマウンドに立つ」

 2006年大会終了後にこう決意し、迎えた2007年、チームは予選で敗退。秋葉はでワンポイント登板のみに終わり、その年の秋、引退を決意した。

「何をやってもダメで、八方ふさがりでした。今までやってきたことが、マウンドで表現できない。『もう無理だな』って、諦めていました」

 そして、当時の指揮官、久保恭久監督に「辞めさせてください」と伝えた。

ようやく立てた東京ドームのマウンド、そして訪れた試練

「夜の7時頃に言いに行ったんですけど、日付が変わるまで説教されました。『3年間育ててきたつもりなのに、お前から辞めるというのはどういうことだ。あと1年やれ。それでダメだったらクビにしてやる。その代わり、お前がダメだったら、俺もクビだ。一緒にもう1年頑張ろう』。そう言ってくれました」

 秋葉は翌年のシーズンを「最後の1年」と決め、あらゆることに挑戦した。

「休みの日もトレーニングをして、メンタルトレーニングも導入しました。自分の足りないことは何かを具体的に考え、いろいろなことを試しました」

 4年目の2008年、予選を野上亮磨(現西武)とともに投げ、神奈川第2代表の座を掴んだ。そして、遠かった東京ドームのマウンドに立つ日が訪れた。

「試合自体は打たれて、初戦で負けたんですけど、それよりも『やっとここに来た』という思いが強かったですね」

 憧れの舞台に立つことができ、野球が楽しいと思えるようになった矢先に、新たな試練が訪れた。2009年2月、不景気のあおりを受け、野球部の年内での休部が決まったのだ。

「2月のキャンプの期間が縮小されたりしていたので、なんとなく察してはいました。『ついに来たか』という感じでした」

 日産自動車野球部として最後の年、都市対抗はベスト4。そして、日本選手権もベスト4と健闘し、創部50年の歴史に幕を閉じた。

「日本選手権の京セラドームのマウンドで、ショートと牽制のサイン交換をしたとき、『もうこの人と野球をやるのは最後なんだ。このメンバーと野球をやるのは最後なんだ』って思ったのをよく覚えています。準決勝で負けて宿舎に帰ってからしばらくは放心状態で、ユニフォームが脱げなかったですね」

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最終更新:7/26(水) 11:41
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