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[忘れません]写真で見るキム・クンジャさんの“美しい人生”

7/26(水) 12:00配信

ハンギョレ新聞

“世界で一番美しいお金の使い方”
「美しい財団」が2013年5月、日本軍「慰安婦」被害者のキム・クンジャさん記念レリーフを作成して付けた言葉です。
7月23日午前8時4分、私たちの元から旅立ったキムさんは、2000年と2006年の2回にわたり計1億ウォン(約1000万円)を美しい財団に寄付しました。
商売をして貯めたお金と政府の生計支援金を、100円の飲料1本も無駄に買わずに貯め、自分のように親を失って学びの機会を失った生徒たちのために寄付したのでした。
キムさんは日本政府が心から謝罪し、被害賠償をすれば、その金もやはり社会に寄付しようとしました。
ハンギョレはキム・クンジャさんの永眠に、キムさんの人生を改めて振り返りたいと思います。
「慰安婦」被害を世の中に広めた「勇敢な証言者」として、数百人の生徒が学業を続けることができるように力を添えた「寄付博士」として、キム・クンジャさんは永遠に記憶されるでしょう。

■キムさんは「勇敢な証言者」
文在寅(ムン・ジェイン)大統領は23日、フェイスブックに掲載した文で、キム・クンジャハルモニ(キムさん)を「強靭な生存者、勇敢な証言者」と言いました。文大統領は2015年12月31日、共に民主党代表時代、京畿道光州(クァンジュ)のナヌムの家を訪問し、キムさんに直接会った縁があります。


 文大統領の言葉通り、キムさんは勇敢でした。10年前の2007年2月15日(現地時間)、米ワシントンの下院外交委アジア太平洋環境小委員会の聴聞会場。当時81歳だったキムさんは、イ・ヨンスさん、オランダ出身「慰安婦」被害者のヤン・ルーフ・オヘルンさんとともに証人として出席し、日本軍の蛮行を告発しました。キムさんはこう言いました。

 「死ぬ前に日本の謝罪を受けなければならないという思いで米国の地まで来た。私の体のあちこちにはとてもたくさんの傷跡が残っており、死なない限界まで殴られた」

 「慰安所で1日平均20人、多くは40人まで日本軍を相手する地獄のような生活をした。私たちは今、お金を望むのでなく、彼らが犯した人権蹂躙と戦争犯罪行為について払わなければならない代価があるという点を認識することだ」

「日本政府は、人間を人間として扱っていなかった」

 「多くの(慰安婦出身の)ハルモニたちが死んだが、歴史は生きているはずだ。失われた私の人生をお金で補償することはできない」


 その日の証言の通り、キムさんの人生は苦しく孤独でした。1926年、江原道平昌(ピョンチャン)で生まれ、10歳で父を、14歳で母を亡くしました。ちゃんと勉強することもできないまま親戚の家で育ち、17歳の時に使いに出され、中国吉林省琿春慰安所に連れていかれました。

 3年間の「慰安婦」生活の間に、自殺を図っただけでも7回。日本兵に殴られ、鼓膜が破れ、生涯左耳は聴こえませんでした。日帝が滅びた後、38日間歩いて豆満江(トゥマンガン)を泳いで渡って故郷に戻ったけれど、「慰安婦」以降の人生も容易ではありませんでした。連れていかれる前に結婚を約束した男性と同棲し短い幸せな時を過ごしたが、家族の反対で男性は自殺しました。その後一人で生んだ娘は5カ月後に亡くなりました。その時から1998年にナヌムの家に来るまで、キムさんは一人で暮らしました。

 「寂しかった。一人で暮らしていたから。それが一番つらいんだよ」生前、キムさんは生きてきて何が一番つらかったかという質問にこのように答えました。


 キムさんは、寂しさと苦痛の中に閉じ込められることを拒みました。ナヌムの家入所後、キムさんは日帝の蛮行を知らせ公式謝罪・賠償を受けるための闘いを始めました。キムさんは国内と日本を回り、証言に立ち、2003年には韓国政府が1965年の「韓日会談」文書の公開をしないと明らかにすると、抗議の意思表示として国籍放棄申請を出したりもしました。

 怒号も厭いませんでした。2015年12月28日、「韓日慰安婦合意」締結後、イム・ソンナム外交部1次官とチョ・テヨル当時外交部2次官がナヌムの家を訪れた時のことです。「ハルモニ方が満足しないというのはわかるが、朴槿恵(パク・クネ)大統領が就任直後からこの問題を解決するために努力した結果」というチョ次官の言葉にキムさんは「政府同士でした合意は認めない。死ぬ前に胸にあふれる恨(ハン)を解いてほしい」ときっぱり言いました。

■キムさんは「寄付博士」
1998年入所後、生涯の居場所となったナヌムの家の部屋の前には、博士のガウンを着たキムさんの写真が掛かっており、その下には「寄付博士」と書かれていたと、美しい財団は伝えます。


 キムさんと美しい財団との縁は2000年にさかのぼります。美しい財団「第1号基金拠出者」だったキムさんは、発足したばかりの財団に5千万ウォン(約500万円)を寄付し、このように述べました。

 「私が孤児だったから。学んだのは夜学の8カ月が全て。幼くして親を亡くして勉強できなかったから暮らしがこんなに大変だったようで…。少しでも学んでいたらこんなに大変ではなかったはずなのに、とよく思ったよ。貧しくて親のいない子どもたちが学ぶ機会だけでも持てるように役立ちたい。でもとても少ないお金なので恥ずかしくてすまなくて」



 多くを出せないことを申し訳ないと思っていたキムさんは、とうとう2006年に5千万ウォンをさらに貯めて財団に寄付しました。キムさんの貯蓄の秘訣はこうでした。

 「よく見れば1年間で1千万ウォンは貯められた。お金持ちにとっては大したことじゃないけれど、私には簡単ではなかった。服は体が匂わない程度だけを持っていればいいし、暮らすのは横になれる場所があれば大丈夫だし。お金が入ってくれば、ただ子どもたちに奨学金をあげたい一心で貯めたんだ。どうか親がいなくて学ぶのに苦労している子どもたちに上げてください」

 キムさんの5千万ウォンからはじまった「キム・クンジャさん基金」は、709人の寄付者とともに11億ウォン規模に増え、2017年7月基準で250人の児童保護施設を退所した学生たちが学費の支援を受けました。


 キムさんは、美しい財団のほかにもカトリック教会の水原(スウォン)教区庁に1億ウォン、ナヌムの家に1千万ウォンを寄付し、2015年5月にはナヌムの家のハルモニたちと500万ウォンを集めてネパール大地震の被害救援募金に出したりもしました。キムさんは自分の葬儀費用500万ウォンを除いて、惜しみなく分け与えました。

■キムさんが残した「偉大な遺産」


 7月10日はキムさんが最後にカメラに収まった日です。キムさんはナヌムの家を訪れたチョン・ヒョンベク女性家族部長官に会い「被害者たちの名誉を回復してほしい」とお願いしました。最後の遺言のようにこの言葉を残して2週間後、キムさんは永眠につきました。

 別れの予感がしたのでしょうか。5月の誕生日に会った美しい財団のスタッフたちには「人生が数奇で、私の運命ばかりこうなのかと悔やまれるときが多かったけれど、振り返ってみると、私の財産はすべて与えて生きるだけ生きたから、後悔はない。だからどうか楽しく生きてほしい」と呼びかけたそうです。


 このように全財産を寄付したキムさんは「偉大な遺産」を残しました。まさに250人の奨学生です。ある学生は生前のキムさんに宛てた熱い思いを込めた手紙にこう書きました。

 「キムさんが寄付してくださったおかげで入学金を払えました。この社会で、他の人を助けることができ、また見回ることのできる人になります。ありがとうございました」

参考:ナヌムの家・美しい財団ホームページ
イ・ユジン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:7/26(水) 12:00
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