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「収容所のイメージとは異なっていた」ドイツ人捕虜、地元の経済発展に貢献 福岡に1300人の収容所 第1次大戦時

7/28(金) 11:34配信

西日本新聞

 第1次世界大戦で、日本軍の捕虜になったドイツ兵約1300人を収容した福岡県久留米市の久留米俘虜(ふりょ)(捕虜)収容所。捕虜たちは、1914(大正3)年10月から5年3カ月をこの地で過ごし、比較的緩やかな管理の下で音楽会を開き、地元の経済発展にも深く貢献したという。ゆかりの地を訪ねた。

【画像】俘虜の収容所があった場所

 第1次大戦では、久留米市の部隊を主力とする独立第18師団が中国・山東半島にあったドイツ軍の拠点、青島を攻め、2カ月余りで陥落させた。捕虜は約4700人。国内十数カ所に収容所が設置された。

 久留米市では当初、寺院や軍演習所、料亭が使われていたが、増加する捕虜に対応するため、15年6月、国分町に新たに施設が整備され、1カ所にまとめられた。

 跡地を訪ねると、そばには久留米大医療センターがあり、駐車場が広がるだけで当時の様子はうかがい知れない。収容所の歴史に詳しい元市文化財保護課職員の堤諭吉さん(69)は「待遇に不満を持つ捕虜もいたがテニスコートや運動場でスポーツを楽しんでいた。ガリ版で印刷した新聞やチラシなど多くの資料が残っている」と教えてくれた。

日本人向けとしては初めての「第9」

 近くの久留米大御井キャンパスの図書館を訪ねる。同大法学部の高松基助教授(69)が、その当時に刷られた音楽会のチラシを見せてくれた。収容所内では、いくつかの楽団がつくられ頻繁に演奏会が催されていたのだ。徳島県の板東俘虜収容所で「第9」(ベートーベンの交響曲第9番)が日本で初めて演奏されたことは映画などで紹介され、広く知られるが、その1年半後、久留米高等女学校(現明善高)で、日本人向けとしては初めてとなる捕虜による演奏会が開かれたという。

 高松教授は97年にドイツに留学した際、現地の図書館などを訪ね、捕虜たちが持ち帰った高良山や久留米城跡で撮影した写真や、収容所生活を描いたイラストなどの複写を入手。帰国後も、資料収集を続け、総数は約1300点にのぼる。

 「テニスや遠足の様子は楽しげで、現代から想像しがちな収容所のイメージとは異なっていた」と高松教授。大戦の主戦場が欧州のため、国同士が憎み合うような状況になく、陸軍がドイツを参考にしていた歴史から捕虜にも敬意が払われていたのではないかと推測する。

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最終更新:7/28(金) 11:34
西日本新聞