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敗北感から「シャーロック・ホームズ」全60作品を自力翻訳 全文無料公開した管理人は何者なのか?

8/4(金) 20:39配信

ねとらぼ

 コナン・ドイルによる不朽の名作「シャーロック・ホームズ」シリーズ。その全60作品(長編4、短編56)をWeb上で無料公開しているサイト「コンプリート・シャーロック・ホームズ」がTwitter上で話題になっています。同シリーズの日本における著作権は既に失効しているため、英語である原作から直接翻訳すれば、著作権上の問題なく掲載することが可能です。しかし全作品を翻訳するとなると、それは並大抵の作業ではありません。

【画像】貴重な『ホームズ』掲載誌の創刊号

 ねとらぼではサイト管理者であるITエンジニアの寺本あきらさんに取材しました。約26カ月に及んだという過酷な翻訳作業。誰に頼まれるでもなく、粛々と膨大な分量を翻訳した動機は何だったのか。「シャーロック・ホームズ」への熱い思いをたっぷり語っていただきました。

●「コンプリート・シャーロック・ホームズ」管理人インタビュー

【翻訳に使った2年間は「懲役」と呼んでいた】
――「コンプリート・シャーロック・ホームズ」はこれまで定期的にネット上で話題になってきた印象があります。そもそもなぜサイトを立ち上げようと思ったのでしょうか。

寺本 きっかけは、忘れもしません、10年以上前、「The Complete Sherlock Holmes」という英語サイトをみつけたことです。全作品と挿絵が網羅されたサイトでチェコのサイトだったと記憶しています。これを見て、日本人として「負けた」と感じました。全作品があるだけではなく、当時のサイトとして完成度が高く、美しかったのです。ソフトウェアの仕事をしている関係で、なにもかも海外製品に負けている状況に閉塞感があったのでしょう。こんなすごいサイトを作るバイタリティーは日本にないんじゃないか、と失望感を味わいつつも、毎日読んで楽しんでいました。

 そして時間がたつにつれ、これに翻訳という手間を加えた「コンプリート・シャーロック・ホームズ」を作れば、このサイトに勝てる。日本人も打ち負かされてばかりではないところを見せたいという、意地のようなものが湧いてきました。そのため最初は全訳ではなく、「対訳」であることに重きを置いていました。先に公開したのは現在も運営中の姉妹サイト「原文で読むシャーロック・ホームズ」の方で、公開は2007年の秋頃だったと思います。

――全てお一人で翻訳されたということですか? 全作品となると、かなりの分量ですよね。

寺本 一人でやりましたね。長編4作品、短編56作品ですが、当時は長編と短編を合わせて「100話」と計算していました。あとどれくらいで終わるのか、イメージしたかったからです。フルタイムでITエンジニアの仕事があり、その合間の時間を使って、対訳に26カ月かかりましたので、ひと月あたり短編4本のペースでした。

 できるたびにサイトにアップしていたのですが「本当に全部できるのか?」とウォッチしていた方もいたようで、どこかの掲示板で「アレ、とうとう終わったね」という書き込みを見たのを覚えてます。翻訳しているときは、全部終わったらどれほど達成感があるだろうと想像していたのですが、まったくなんの感慨も湧かず。ただ「明日翻訳する分がない」という事実があっただけでした。

 完訳前のひと月くらいは、頭が疲労してしまって完全に手が止まってしまうこともあったので、限界を超えていたのかもしれません。後から達成感がわいてくるということもなく、個人的にはこの翻訳に使った2年間を「懲役」と呼んでいました。

 使える時間は全て翻訳に使ったので、ムショ暮らし、空白の2年、というのが振り返っての感想です。昔の出来事を思い出すときに、あれは「懲役」前だったっけな? という感じで、自分の中で大きな区切りになってます。

【老人臭さが嫌で、若々しいホームズにしたかった】
――壮絶ですね……。ではそうして出来上がった、「対訳版」のサイトを元に、後から「コンプリート・シャーロック・ホームズ」を作られたわけですね。

寺本 「コンプリート・シャーロック・ホームズ」は2008年の10月ごろの公開だったと思います。対訳版公開直後は精根尽き果てて、しばらくサイトを放置していましたが、ここまでできているなら日本語の文だけをプログラムでマージして、手動で調整すれば、日本語訳として読めるかもしれないと考えました。専用のスクリプトを作成し、2つのサイトを同時に構築/編集できる環境を整えた後、日本語訳サイトとして完成したのが「コンプリート・シャーロック・ホームズ」です。作業にかかった期間はだいたい10カ月ですね。

 こちらは楽しみながらやれました。何しろ日本語はもう打ち込んであるので、コピペと調整だけで日本語の文に変わり、辞書もいらない。それまでと比べると非常に楽です。速度的には、月8本くらいでしょうか。主な作業としてはソースとなるテキストファイルの形式設計、上下左右のインデックスを自動生成するスクリプト、ポップアップテキストの処理などでした。2012年ごろ、時代がガラケーからスマホに完全に代わってしまったため、スマートフォン向けのページをjQuery Mobileを使って簡単に作成しました。現在はスマートフォンからのアクセスが8割以上です。通勤時間帯のアクセスも多いので、おそらく電車の中で読んでいる人がいるんだろうなと想像しています。

――翻訳された中身についても伺います。無料公開されているものとは思えないクオリティーなのですが、翻訳にあたって特に意識された点は何だったのでしょうか。

寺本 正直に言うと、日本語を入力するのに必死で、自慢できるような工夫はありません。ただ1つ、従来の日本語訳されたホームズの老人臭さが嫌で、若々しいホームズにしたいとだけは考えていました。当時ロバート・ダウニー・Jrが演じた映画「シャーロック・ホームズ」は未公開でしたが、原文には、まさにあんなエキセントリックで傲慢、人をばかにする、ひねくれた、社会不適合者のホームズが生々しく記述されているのです。ところが、よく見る文庫本の翻訳などでは毒気を抜かれて、年配の安楽椅子探偵みたいになっていることが多いのが不満でした。

 苦労した点でいうと、「皮肉」と「あてこすり」が多いのが難しかったですね。まともに訳すると逆の意味になってしまいますから。たとえでいうと「僕は君ほど頭がよくないから」というセリフでも、言葉通りに捉えていい場合もあるし「イヤミ」で言う場合もある。この「皮肉」「イヤミ」「あてこすり」が、シャーロック・ホームズのセリフには非常に多く、正しく皮肉と見抜けばものすごく傲慢なのに、文字通りに訳してしまうと非常に謙虚なホームズになる。ここが面倒です。この辺は現在更新しているブログ「トコトン英語」で解説していますので、よろしければ読んでみてください。

――ブログもやられていたんですね。あとで読むのが楽しみです。もともと英語はどちらで学ばれたんですか? またホームズとの出会いはどのようなものだったのでしょうか。

寺本 英語は専門学校に4年通い、その後仕事で英文を読むことがよくありました。「シャーロック・ホームズ」との出会いは小学校3年生のときです。最初はたしか新潮文庫で読み(総ルビだったので問題なく読めました)、高校生以降は原文で読んでいました。その後は上記のサイトに出会うまで空白がありましたね。

――ところで、寺本さんは「ストランド版 シャーロック・ホームズ」という本も出版されてますよね。こちらはサイトがきっかけで出されたものですか?

寺本 「ストランド版」をご存じとは、ホームズ並みの調査力ですね。こちらについてはかなりマニアックな話になるので、その点はご容赦いただきたいのですが……。

【天下のスタンフォード大学が、こんな粗末な冊子を作るなら】
寺本 まず「ストランド・マガジン」は、シャーロック・ホームズ短編の初出誌で、ファンの中では有名な月刊誌です。創刊は1891年1月で、7月号に「ボヘミアの醜聞」が掲載され、ホームズの成功、ひいてはコナン・ドイルの出世作となります。この雑誌の特色は「ほぼ全ページイラスト入り」という点で、シャーロック・ホームズ作品にも豊富なイラストがついていました。

 ストランド・マガジンは「見る」雑誌で、マンガの絵と文字の比率を逆転させたような誌面構成になっています。一度これを楽しむと、ほかの誌面で見るホームズはいまひとつだなあ、という英語読者も少なからず存在します。誌面をそっくりそのままコピーした「シャーロック・ホームズ ファクシミリ版」という書籍は現在でも根強い人気で、この版は1891年以来、一度も絶版になったことがないというとんでもない存在なのです。

 その日本語版を自ら作ろうと思い立ったきっかけは、スタンフォード大学が発行していた「ファクシミリ版」を目にしたことでした。スタンフォードは「ホームズ研究」で有名で、2006年には全12号の「ファクシミリ版」ホームズをアメリカ国内に限り、安価で配布していました。

 月に一度ストランド誌の青表紙が郵便で送られてくるなんて、スタンフォード大学が面白い遊びをやっているなあ、と興味を持ったので、あちこち探し、カリフォルニア・サンマテオ在住の人に送られた12冊を入手しました。しかし、苦労をして入手した現物を見てひっくり返りました。チリ紙を厚くしたようなざらざらの紙に、にじんだフォント、表紙の青も紙の色でなくインク塗りで、乱丁だらけという粗末なものだったんです。

 オリジナルのストランド誌はおろか、コミケ無料誌の足元にも及びません。時々ポストに放り込まれている不動産物件のチラシのよう、と言えばイメージがわくでしょうか。ところが、最終号の1ページ目を見て目を疑いました。発行部数が1万3000部もあったのです。

 これを見て、英語読者の「ストランド青表紙」に対する執着に感心すると同時に、天下のスタンフォード大学がこんな粗末な冊子を発行し、それを1万3000人のアメリカ人読者が喜んで読んでいることに複雑な気分になりました。日本人ならこんな落丁だらけの本、銃を突きつけられたって作らないのに! あそこはこうして、ここはこうやって、アメリカ人がのけぞるようなものを作ってやる! これが第一の動機です。

――なんだかサイト立ち上げ時と流れが似ている気が(笑)。

【1字の校正でレイアウトがぐちゃぐちゃ、神経衰弱のような作業】
寺本 もう1つの動機は、私自身が文字通り「マンガのように読む」読み方をしてみたかったからです。マンガを読むときって、絵を見ながら同時に吹き出しを読むというダイナミックな読み方をしますよね? あれは母国語だからできるのであって、英語で書かれたマンガでは、絵と吹き出しはなかなか同時に読めません。ですから、本当に「ストランド・マガジンのシャーロックホームズ」を楽しむためには、母国語に翻訳する必要があるのです。翻訳さえしてしまえば、横書きという点さえ我慢すれば「本文を読みながら、挿絵を楽しむ」読み方が可能です。

 問題は「それが可能なのか?」ということでした。英文の翻訳はできても、訳文が物理的に誌面に収まるのか? 収めたとして、それが「本として」読める状態を保てるのか? こればかりはやってみなければ分からない問題でした。「できる」と証明するには、誌面を作るだけでは不十分です。自分がそれを「本」だと思っているだけでは証明にはなりません。それを「販売」し、誰かが「本」として買い、「本」として読んで、初めて「ストランド・マガジン シャーロック・ホームズ 日本語版」が成立すると証明できたことになる、と考えたのです。

――熱いですね。

寺本 さらに、装丁が本物の19世紀「ストランド・マガジン」そっくりなのに、ページをめくると日本語! というシュールさを演出したかったんですよね。ふとこんなイメージが思い浮かんだんです。

 若いころストランド・マガジンを夢中で読んでいたイギリス人の書斎にそっと忍び込み、刷り上がったばかりの「日本版ストランド誌」をテーブルの端に置き、どこかから様子をうかがう。高齢の書斎の主人が入ってきて、真新しいストランド・マガジンに気付く。なんだ、これは! 若い頃読んだ雑誌が、新品に変わってるぞ? 老人は慌てて雑誌をめくる。するとそこには、宇宙語のような文字が並んでいるのだった……。

 振り返ってみるとすごくつまらない想像かもしれませんが、そのイメージが脳裏を離れなくなりました。

――思い付くだけでなく、実際に作ってしまうのは相当なエネルギーですね。

寺本 こういった遊びの場合、外側は古くさく、中は最新技術の印刷の方が面白いと思いました。ですので挿絵は網掛けではなく、FMスクリーニングという最新技術を使って印刷しています。

 こんな本を買う人が何人いるのか見当もつかなかったので、少部数だけ刷ってAmazon.co.jpで予約を始めたら、発売日前にはやばやと売り切れてしまいました。割り増しの印刷費で、大急ぎで2度増刷をしましたが、それでも1年もたたない間に絶版になりました。

――現在は買えないんですね。残念。

寺本 この本では、小さいフォントの読みやすさを考慮した平仮名の多用、ポンド・ヤード法のメートル法への変更、イラストのレタッチと特殊な印刷など、かなり過激な実験をしたので、星1つが並んでもしょうがないと思ってました。しかし意外にも高評価をいただきまして、ホームズファンの懐の深さに触れた気がしましたね。むちゃくちゃ手間がかかるけど、そんなに待ち望んでいる人がいるなら次も出そうかということで出版したのが、「ストランド版 バスカヴィル家の犬」でした。

――今後も新たに出版される予定はあるんですか。

寺本 現在も合間に続編を作成していますが、先に組み版が決まっていて、そこに合うように訳文をはめ込み、しかもイラストと文章がいい位置になるようにしなければなりません。ドミノ倒しのように影響が続くため、1字校正しただけでレイアウトがぐちゃぐちゃになることもある、神経衰弱のような作業ですので、エネルギーが相当たまらないとなかなかできないのです。

――1冊1冊が執念の塊みたいな作品ですね。最後に、あらためて「コンプリート・シャーロック・ホームズ」のサイトについてコメントいただけないでしょうか。

寺本 本当は、もう少し訳文に気を使うべきだったように思いますが、クラシック作品である「シャーロック・ホームズ」にこれほど需要があるとは驚きました。公開後は約10年間、気になるところを少しずつ手直ししてきました。今後も表現には手を入れていくつもりです。

――興味深いお話、本当にありがとうございました。

寺本  こちらこそ、長々と語るマニアの話にお付き合いいただきありがとうございました。 私はあくまで一人の「シャーロック・ホームズ」ファンですので、少しでも作品に興味を持っていただけたら幸いです。

最終更新:8/6(日) 4:17
ねとらぼ