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【ブラジル】日本統治下の台湾を生きた人々

8/4(金) 4:25配信

サンパウロ新聞

25年間台湾に帰れなかった陳文財さん 「二・二八事件」殺害現場も目の当たりに

 「今、ここ(ブラジル)だから話せることがある」と陳文財さん(85、台湾)は第二次世界大戦前後の台湾を振り返った。台湾人として同時代を過ごし、渡伯した2人を取材する機会を得た。20世紀史上最も長い38年にわたる台湾の戒厳令下で封じられてきた貴重な証言が得られ、日本と関わりの深い台湾の生々しい歴史像が浮かび上がってきた。

 「あの頃のことを『犬去りて、豚来たる(狗去猪来)』とよく言う」と陳さんは、終戦前後の台湾の政変を指す俗語を紹介した。「日本人はうるさいが番犬として役に立った。しかし、国民党の人間は貪り食うばかりで何にも役に立たない」と言われるそうだ。日本統治の強権ぶりや、蒋介石率いる国民党の汚職への失望を表しているとも解釈できる。

 陳さんは1932年に台湾南部の高雄市に生まれた。祖父の代に中国の福建省から台湾に渡ってきた本省人だ。当時の台湾は日本統治下の、(陳さんの言葉を借りれば)「格子のない台湾」だった。戦後、国民党による戒厳令下に治安が悪化し、多くの建物の窓に鉄格子が取り付けられ、それが現在でも台湾を特徴付ける景観の一つとなっている。一方、戦前の日本統治下について陳さんは、「島全体が一つの鉄格子の中みたいなものだったから」と語る。

 日本人の子供とは分けられ、台湾人の生徒のみの公学校に通い、読み書きも日本語の授業を受けて育った。

 37年の盧溝橋事件に端を発した日中戦争(支那事変)を受けて、日本の台湾総督府は「皇民化」運動を実施。陳さんも「江川文雄」への改名を促された。

 大戦末期、高雄市にも米軍の空襲があった。「空襲警報が鳴って、学校のみんなで走って防空壕に入っていったのを覚えている」そうだ。

 この時、陳さんの兄の一人は、多数の戦死者を出した「レイテ島の戦い」に山下奉文大将配下の日本兵として参加し、帰らぬ人となっている。

 45年に日本が「ポツダム宣言」を受諾し、台湾の領有権を破棄すると、中華民国の蒋介石率いる国民党が台湾に進駐した。なお、中国本土では、国共内戦が46年6月から再度本格化し、49年10月に中華人民共和国が建国した。

 終戦以降に大陸から移住した外省人の弾圧が引き金となり、47年に「二・二八事件」が起こった。抗議をした本省人のデモ隊や一般市民、知識階級などが多数処刑殺害され、その数は現在でも諸説ある。

 陳さんは、「汽車から降りた市民が銃殺されたり、街(高雄市)の中心に集められ、処刑現場を見せられた」ほか、「友人の兄が人力車から引きずり降ろされて銃殺されたことや、(同市の)愛河に人の死体がいっぱい浮かんでいた」のを目にしたという。

 「台湾独立運動に参加した」ことで「国民党に睨まれた」陳さんは、その後日本で建築を学ぶなどし、62年に渡伯。ブラジルでは大学で再度建築を学び、学位を取得。建築関係の仕事で生計を立てた。

 渡伯後も、国民党体制下の厳戒令が87年に解除されるまでの25年間、台湾に帰ることができず、ブラジルで台湾人渡伯者に出会っても「外省人の中に国民党のスパイが混ざっていて、狙われてしまうかもしれない」ため、なかなか気を許せない日々が続いた。

 そうした状況や、かつての台湾時代への郷愁もあってか、陳さんは今でもブラジル日本移民とも交流が多く、親交の深い人たちから「(過去を)言いなさい、言いなさいと言われたけど、言ったら殺されるかもしれなかった」と語る。

 現在は、毎年サンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会で行われる「国際民族舞踊祭」で台湾舞踊チームを牽引し、同区の岩手県人会館では元気にカラオケを歌う。「生い立ちがあってか、やっぱり歌うのは日本の歌だね」と、どこかあどけなく笑った。(つづく)

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