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原爆資料館で被爆死記者の遺品展示 元合同新聞広島赴任時に妻へはがき

8/4(金) 23:31配信

山陽新聞デジタル

 単身赴任していた広島市で被爆し、家族が待つ故郷の岡山県津山市で亡くなった元合同新聞(山陽新聞の前身)記者の藤間侃治(とうま・かんじ)さん=当時(33)=が妻に宛てたはがきなど遺品の一部が、原爆資料館(広島市中区)の東館地下1階で開催中の「新着資料展」(11月30日まで)で展示されている。文面から浮かぶのは、悪化する戦況を直視しつつ、離れて暮らす妻や幼い娘たちの身を案じる優しいまなざし。被爆72年の8月6日、娘4人が同館を訪れて父をしのぶ。

 藤間さんは1945年5月に合同新聞広島支社に赴任。爆心地から約1キロの支社近くにあった下宿で被爆し重傷を負った。運ばれた国民学校で人に託した伝言が家族に届き、親族の男性が津山市まで連れて帰ったが、24日に入院先の病院で力尽きた。

 遺品は被爆70年を迎えた2015年8月、三女の藤間昭代(てるよ)さん(75)=兵庫県宝塚市=や五女の高山以津(いつ)さん(72)=津山市=らが同館に寄贈した。昭代さんが預かっていた手紙や書類など計61点で、被爆関連資料として保管されている。

 このうち展示しているのは3枚のはがきと、遺影や毛髪を納めた遺品袋の計4点。7月1日消印のはがきは岡山空襲(6月29日)に触れ「愈々(いよいよ)来るものが来たと云(い)ふ感じがする(中略)岡山の本社も焼けた(同)皆(み)んな元気でゐてくれるやそればかり祈つてゐる」と記している。

 5人の娘のうち体の弱かった四女は戦後間もなく亡くなり、4姉妹は母が描いた侃治さんの似顔絵に日々話し掛けながら成長した。昭代さんは「つらいときは父の手紙を読んで泣いた」と話す。

 岡山空襲の直前に生まれた以津さんは、08年に91歳で他界した母の幸子さんから侃治さんの話を何度も聞かされた。「(広島は)栄転らしいが、死に場所のような気がする」。赴任が決まったとき父が知人に打ち明けたという言葉が心に突き刺さる。

 4人は、侃治さんの名が刻まれた「原爆犠牲新聞労働者の碑」(広島市中区)の碑前祭に参列後、同館に足を運ぶ予定。以津さんは、誕生前に父が買ってくれた厳島神社(廿日市市)のお守りを忘れずに持っていくという。