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黒野城主・加藤貞泰は岐阜市出身 滋賀県説覆す

8/5(土) 9:31配信

岐阜新聞Web

◆高野山の五輪塔に記述 顕彰団体調査
 戦国末期から約15年、岐阜市黒野地区に存在した黒野城と一代限りの城主加藤貞泰(さだやす)を顕彰する市民団体「黒野城と加藤貞泰公研究会」が4日、これまで諸説あった貞泰の生誕地を、市役所北の同市端詰町周辺とする研究成果を報告書にまとめて発表した。黒野城主が岐阜出身だったことがわかり、同会は「これまでの定説を覆す発見」と話している。
 貞泰は1580(天正8)年に生まれ、94年に黒野城を築き美濃国黒野4万石を治めた。その後は米子(鳥取県)や大洲(愛媛県)の藩主となり、1623(元和9)年に44歳で亡くなったとされる。
 生誕地は、1759(宝暦9)年に加藤家家臣が編さんした「北藤録」などから、これまで江州磯野村(現在の滋賀県長浜市高月町磯野)が定説とされていた。他に、江州高島(現在の滋賀県高島市)の説もある。
 2014年5月、同会会員の座馬秀明さん(46)=岐阜市御望=が北藤録に、高野山(和歌山県高野町)に加藤家の墓がある旨の記述を見つけ、現地を調査。現地には記述通り高さ1丈(約3メートル)の五輪塔があり、縦51センチ横58センチの側面には「生國濃州岐阜橋詰(生まれ故郷は美濃国岐阜の今泉村内の橋詰)」と彫られていた。橋詰は現在の岐阜市端詰町に当たるという。
 側面には、墓の主が貞泰とする記述のほか、貞泰の嫡男五郎八(元服後の泰興)が建てたとする説明文もあった。
 同会の調査団が先月調査し、報告書をまとめた。河口耕三会長=同市今川=は「地元出身の武将がいたことは喜ばしい。今後も顕彰活動を続けたい」と話している。
 近世史に詳しい犬山城白帝文庫(愛知県犬山市)の筧真理子主任学芸員は「生地について嫡子によって建立された墓碑に着目して確定したのは大きな成果」とコメントしている。
 報告書は県図書館や岐阜市立中央図書館などで閲覧できる。

岐阜新聞社

最終更新:8/5(土) 11:35
岐阜新聞Web