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「ブラジルに来て良かった」 朝鮮に生まれ日本で学んだコ・グヮンスンさん

8/5(土) 4:55配信

サンパウロ新聞

韓国「文化使節団」の一員で渡伯

 「良かった。ここ(ブラジル)には共産主義の目印も何も見当たらない」と1962年に韓国の「文化使節団」の一員として着伯した高光※(コ・グヮンスン)さん(97、平壌)は思い、家族を呼び寄せた。日本統治時代の朝鮮で生まれ育ち、日本で学校にも通い、満州に疎開をした。第2次世界大戦終戦時に平壌に戻るも、朝鮮戦争の混乱にも巻き込まれ、韓国へ移った後にブラジルへと移り住んだ。そうした歴史の激動に巻き込まれた高さんは、今もひっそりとサンパウロ市内で暮らしている。その数奇な生涯を語ってもらった。(※は王へんに旬)

 高さんは、20年に現在の北朝鮮の首都平壌に生まれた。1歳の時に、「父が独立運動に関わったとして京城(現ソウル市)に拘留され、10年間帰ってこなかった」という。学校は、当時日本人が通う「小学校」とは分けられた、朝鮮人が通う「普通学校」へと通い、日本語を学んだ。高さんによると、「先生が日本人で、授業が日本語で、何を言っているのか分からなかった子供がいっぱい居た」という。父と再会したのは4年生、11歳の時だった。

 高さんは、その後日本の京都府に渡り、京都市内の永観堂禅林寺の聖峯中学校に通った。高さんによると、「朝鮮籍だったけど、日本には自由に行けた」そうだ。卒業後は、東京に移り、旧制早稲田大学早稲田高等学院に進学し、数物を学んだ。

 戦時中、高さんは夜間に同学院で勉学に励む傍ら、昼間はネジなどの武器の部品を作る工場で働いた。その工場は職員10人ほどの小規模なものだったが、たまたま「親方」が朝鮮語は不得意ながらも、朝鮮人だったという。その「親方」が、「工場の親会社の都合で満州に行くことになったんだが、満州はどういう所だ」と高さんに聞くと、「満州は良いところです」と答えたという。「東京が焼けていたから(敗戦すると)みんな分かっていた。関東大震災の時に朝鮮人は散々な目に遭ったと聞いていたし、日本が戦争に負けた時に、(朝鮮人である)自分がどうなるか分からない。満州に行けば、もし負けたら(陸路で)逃げてそのまま朝鮮に行ける」と考えていたそうだ。

 こうして高さんは同学院の卒業を前に、工場の移転先である満州の奉天市に疎開。高さんらが先に到着するも工場の機械が届かなかった。高さんの元にも「神戸港を出発した貨物船が空襲にあった」と連絡が入ると、高さんは「親方」にこう申し出た。「ここ(満州)の冬は寒いのに服がないから平壌に取りに行ってきます。機械もまだ来ないですから」。すると、「親方」は1カ月分の給料を手渡し、「よく食べて健康になってこい」と休暇に出してくれたそうだ。

 列車で平壌にいる姉の元へ着き、服などを整えると、すぐに奉天へ帰ろうとして列車の駅へ向かった。平壌から安州市まで来ると、駅員に「奉天への列車は出ない。日本がやられた。考え直せ」と言われるも、何のことかよく分からずに、平壌の姉の家まで引き返した翌日、日本の敗戦を告げる「玉音放送」が平壌に響き渡った。

 「街には何故か知っていた人が大勢いた。みんな前の夜から旗を作ったりしたりしていたんだろう。(玉音)放送が鳴ると、朝鮮の国旗を持って街に飛び出していた」と高さんは振り返る。この時満州からの引き揚げでは満蒙開拓団をはじめ、多数の犠牲者が出たが、高さんはこれを逃れている。

 終戦後、高さんは、再度日本に渡って大学へ行こうと思い立った。しかし、汽車や船に乗るのに十分な金がなく、兄に相談を持ちかけた。すると、思わぬ方向へ人生が動いた。「こんな時に日本へ行こうとしている僕(高さん)を留まらせようとして、兄が相手を紹介して、結婚させたんだ。プルコギを食べるだけと思っていたら騙されたようなものだった」と笑う。

 翌年の46年、平壌の金日成総合大学の創立時に入学。第一期卒業生として建築の学位を取得した。

 しかし、今度は50年に朝鮮戦争が勃発。「なんとか逃げに逃げて南(韓国)に移った」。それでも「またいつ南北(朝鮮)戦争があるか分からない」と考え、62年に韓国の「文化使節団」の一員として渡伯した。なお、韓国からの最初の集団移民は、翌63年の「チチャレンカ号」で、日本人と一緒にブラジルに来ている。

 高さんは、サンパウロ市内でホテルや飲食店を経営するなどを経て、現在に至る。ブラジル日本移民とも長い付き合いがあるそうだ。「こっち(ブラジル)の日本人は本国の日本人とは大分違う。日本も地方ごとに違うんだなと思った。朝鮮人にも優しかった。何かあったら僕に尋ねに来てくれる人もいたし、百姓をやっていた人たちのことも、僕はかえって尊敬するくらいだ」と微笑んだ。

サンパウロ新聞