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【静岡・古城をゆく】直親の謀反、掛川城下で“非業の死

8/6(日) 7:55配信

産経新聞

 井伊直親は、今川氏への謀反の疑いで誅殺(ちゅうさつ)された直満の子で、俗名・亀之丞。後の直虎と婚約者であったが、家老・小野和泉守政直は、この継承を快く思っていなかった。父が討たれ9歳の亀之丞にも危険が迫り、追手が迫るなか井伊谷北の渋川・東光院に匿(かくま)われ、さらに信州の松源寺(長野県高森町)に逃亡した。龍潭寺和尚の南渓瑞聞(なんけい・ずいもん)の計らいであった。

 直虎は(亀之丞を)待ち続けたが、南渓の許で出家して「次郎法師」となった。亀之丞は10年以上たった弘治元(1555)年、小野和泉守の死を契機に井伊谷に戻ることができた。井伊家当主・直盛は養子に迎え、名も直親に改めた。

 出家した次郎法師とは結婚できなかったため、家臣の奥山朝利(ともとし)の娘を正室とし、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いの翌年、待望の男子が誕生、それが虎松で後の井伊直政である。

 桶狭間では、今川義元とともに直盛も戦死。井伊家に男子がいなかったため、直親が家督を継いだ。幸せな暮らしは長く続かず、家老の小野但馬守(和泉守の長男)から「松平元康(家康)と手を組もうとしている」と疑いを掛けられた。

 永禄5年、直親が駿府へ申し開きに行く途中、掛川城下に入ったところで今川氏真の命を受けた掛川城主・朝比奈泰朝の軍勢に取り囲まれ、家臣19人とともに殺害された。享年27。遺骸は居があった祝田村に運ばれ、都田川で荼毘(だび)に付された。

 墓地は都田川の堤防脇にあり、愛用した「青葉の笛(模造品)」が置かれている。当主となった直親が領内の傍らに置かれているようで、一抹の寂しさを感じた。(静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:8/6(日) 7:55
産経新聞