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「地獄の光景」に戦後も足震え 新垣和子さん 平和のため広島へ きょう原爆の日

8/6(日) 8:30配信

琉球新報

 「足がガクガク震え、広島駅に降りられなかった…」。16歳で被爆し、6日の平和記念式典に初参加する新垣和子さん(88)=那覇市=は、実は一度、被爆地の広島を再訪しようとしたことがある。その時、あの日の記憶がよみがえってきた。「今回は大丈夫だろうか」。真夏の長距離移動で体調の不安もある。それでも「行かないと後悔する」と決意は固い。
 太平洋戦争末期の1945年8月6日、岡山県に疎開していた新垣さんは前夜から広島市の旅館に泊まっていた。母親と一緒に、戦地で負傷した兄を見舞うためだった。警戒警報が解除され、身支度をしている時だった。旅館が激しく揺れ、天井が落ちてきた。地上約600メートルで原爆がさく裂したのだ。

 爆心地からわずか約1・5キロだったが、新垣さんも母親もかすり傷で済んだ。外は「地獄の光景」だった。やけどで皮がむけ、肉があらわになった人。「助けてー」「お母さーん」「痛い!」の叫び声。「川は血の海で人がぽこぽこ浮いていた」。新垣さんは死体を越えて歩き、何とか救護所にたどり着いた。

 戦後10年ほどたって、新垣さんは両親の出身地の沖縄に移った。ある日、親戚の前で母が「ピカドン(原爆)に遭った」と話した。返ってきた言葉は「あんたたちは楽だったね。私たちは(沖縄戦で)何日も泥の中を移動したのよ」だった。米国統治の下、原爆の実態は県民に知らされていなかった。新垣さんはその一件以来、被爆体験を心の中に押し込んだ。

 結婚し、3人の子どもを授かった。孫も3人いる。6、7年前、友人と関西を旅行した際、誘われて広島へ向かった。広島駅で降車しようとすると、足が震えて動けなくなった。新垣さんは「目の前に救護所の光景が現れた」と言う。

 「全身の皮がめくれて『痛いよー、痛いよー』と言って走り回る5、6歳の少年がいた。夜、うめき声で眠れない。窓の外を見ると、その子が死体と一緒に船に乗せられていた。助からなかっただろう。この話は母にもしていない」

 今回、県原爆被爆者協議会の要請を受け、平和記念式典への参加を決めた。12年前に胃がんを患い、胃の3分の2を切除した。めまいもあり、毎食後、7~12種類の薬を服用している。それでも、72年ぶりに広島に向かう。

 「被爆時に泊まっていた旅館の経営者は即死だったと思う。私は生かされたけど、ずっと逃げているような気がしていた。被爆者一人一人の話を聞いて、平和のためにつながりたい」

(真崎裕史)

琉球新報社

最終更新:8/6(日) 10:11
琉球新報