ここから本文です

<長崎原爆の日>青春の痕跡求め歩いた亡父 熊本の被爆者

8/9(水) 13:52配信

毎日新聞

 原爆投下から72年を迎えた9日、長崎には全国から被爆者や遺族が集い、追悼の祈りに包まれた。

 熊本県合志(こうし)市の会社員、西野真二さん(61)は昨年8月末に87歳で亡くなった被爆者の父富夫さんの慰霊のため、長崎市松山町の平和公園であった平和祈念式典に出席した。「戦争はいかん。平和が一番だ」。そう繰り返した富夫さんは晩年、何度も熊本から長崎を訪れ、被爆した当時の痕跡を探し求めていた。

 富夫さんが残したメモによると、富夫さんは1944年6月、14歳の時に熊本から三菱重工長崎造船所に学徒動員された。45年8月9日の原爆投下時は造船所内で設計図面を回収していた時に空が光り、目がくらんだ瞬間、とっさに伏せた。爆心地から約3.5キロ。爆風による粉じんが一面を覆った。幸い大きなけがはなかったが、爆心地に近い浦上の工場に出かけていた同級生は亡くなった。

 戦後、会社員として働いた富夫さんは、8月9日が近づくと真二さんら2人の子供たちに被爆当時のことを語り、「戦争はいかん」「原爆は悲惨だ」と説いた。

 晩年には長崎を繰り返し訪れ、原爆資料館や平和公園にも足を運んだ。最後となった長崎旅行は2015年5月。学徒動員されたころに同級生たちと一緒に暮らした三菱の寮があった場所を真二さんが探し出し、富夫さんを連れて行った。更地になっていたが、富夫さんは「ここだ、ここだ」と懐かしそうに話し、2時間とどまった。原爆の犠牲になった同級生の名前を口にして「あいつも死んだ、こいつも死んだ」と寂しそうにつぶやいた。

 真二さんは「多くは語らなかったが、父は原爆のひどさを身をもって感じていたんだと思う」と話す。

 その年の秋に、富夫さんは前立腺がんを患い、一時入院。昨年4月の熊本地震では、真二さんと同居する自宅の壁が崩れ、10日間避難所暮らしをした。自宅に戻ってからも投薬しながら通院を続けたが、同年8月末に息を引き取った。「長崎に行けて良かった。何も思い残すことはない」と言い残した。

 この日、奉安された原爆死没者名簿に富夫さんの名前が記された。式典に出席した真二さんの手には、最後の長崎旅行で撮った富夫さんの遺影があった。「大変な思いをしたんだね。よう生きてきたね」とつぶやいた。【今野悠貴】

 ◇被爆2世の30歳、一家で青森から

 青森県八戸市から初めて式典に参加した郵便局員の小山内(おさない)文子さん(30)は、祖母ナヲさん(1999年に89歳で死去)と当時1歳だった母鈴子さん(73)が長崎で入市被爆した被爆2世。幼い娘にも平和を願う長崎原爆の日の雰囲気を感じてほしいと、長女桃花ちゃん(4)と次女七花(ななか)ちゃん(6カ月)を連れてきた。

 「男女の見分けもつかない遺体があちこちに転がっていた。これが地獄だと思った」。長崎市に住む伯父(83)から何度か原爆投下後の話を聞き、子供心に恐怖を感じたことを覚えている。祖父は、末娘の母が生まれた3カ月後に召集され、外地で戦死した。小山内さんは2人の娘を持つ母親になって、改めて平穏な日常を奪う戦争の恐ろしさを感じる。

 長崎には夫の祐次さん(31)も含め家族全員で訪れた。滞在中には、被爆時に一家が住んでいた大浦周辺を回り、原爆資料館も見学する予定だ。「母や祖母の体験を娘にも伝え、原爆の被害がかわいそうだと思える素直な気持ちを持ってほしい」【浅野孝仁】

最終更新:8/9(水) 16:30
毎日新聞