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石川直宏、引退決断の裏にあった葛藤と”らしさ”…父の後悔が紡いだ物語の行方(前編)

8/10(木) 12:00配信

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■一度は踏みとどまった引退

何から書けばいいのか。書き出しがこんなにも浮かばず、数行書いては消しを何度も繰り返した原稿は、後にもないだろう。そうこうしているうちに、これまでそうしてきたように、石川直宏が口にする無骨な思いを素直に、ありのままに文字に乗っけて書こうと決め、ノートパソコンの前に座って画面に向かっている。

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僕は縁あって2004年あたりからFC東京の記事が掲載されていた媒体で働くようになり、2006年からフリーランスのライターに転身した。ナオの取材を始めたのは、その年のJヴィレッジ合宿からだった。同じ1981年生まれだったこともあり、打ち解けるまでにそう時間は掛からなかった。大事な話や、お互いに悩んでいることがあると、なぜかいつもクラブハウスの駐車場で話をした。さっきまで明るかったはずなのに、影がずいぶんと伸び、気づけば洋服の色を識別できなくなるまで何時間と話し込んだこともある。ただ、その数日後には決まって「何か見えそうなんだよ、新しい姿が。楽しみなんだよね」と喜々として語り、あんなに悩んでいた姿はどこへいったのかと、ナオの変わり身の早さにいつも驚かされてばかりだった。気づけば、それから10数年が経過していた。

昨秋、ナオに「ちょっといい?」と呼び出され、駐車場でこう告げられた。

「膝以外はどこも悪くない。むしろ完璧に近い状態だと思う。でも、こいつだけが言うこと聞いてくれない……」

そう言って、ポンッと歴戦を戦い抜いた左膝を打った。曇りがちな表情で視線は落としたまま、「いろいろ考えたけど、今年で区切りをつけようと思う」と続けた。

返事に困ると、お構いなしに言葉が幾重にも連なった。20代の頃からそうしてきたように、気づけば長い影は地面と同化し、身につけた衣服は色を失っていた。懐かしさを覚えたと同時に、こうと決めたら翻意することがない性格だとも知っている。「また話そう」と言って別れ、それから何度も同じようなことを繰り返した。

悩みに悩み抜いたが、最終的に彼は踏みとどまった。

「大好きなクラブと、ファンやサポーターのみんながまだ必要だと言ってくれた。だけど、この一年で結果が出なかったときは……。待っていてくれている人たちとシャーレを掲げたいんだ、どうしても。そのとき、オレは絶対にピッチに立っていたい」

覚悟を決めた。

迎えた今シーズン、FC東京はオフに大型補強を敢行した。日本代表クラスの選手がずらりと並び、前年のリーグ得点王ピーター・ウタカを期限付きで獲得。苦しいリハビリに耐えながらも、悲願のリーグ制覇に向けてナオも大きな期待を膨らませていた。だが、シーズンが開幕すると、チームは思うように勝ち点を積み上げられず、リーグ19試合を終えて11位に甘んじている。

そんな中、6月28日の練習後、スッキリとした表情で「決めたから」と彼は言った。それにうなずくと、ナオは「クラブとも相談するけど、夏のタイミングで発表しようと思うんだ」と言い、こう切り出した。

「今だからという思いもある。これまでたくさんの壁を乗り越えてきたけど、残り数カ月は最初で最後のチャレンジになる。(引退理由の)一番は自分の膝の状態もあった。シーズンを通して戦い続ける体があって初めて勝負ができるのに、それがかなわない。ファンやサポーターが期待してくれているプレーをし続けることは現状では厳しい。諦めたわけじゃないけど、それを理解した上で何ができるかも考えた。今はプレーできていないけど、これまで見えていたもの、感じたことを必ずピッチで表現して終える。そこまでがセットだから。残りの期間で、今まで経験したことがないものが、きっと待っていると信じている」

その決断に「らしいね」と、返事をした。

その後、ナオはお世話になった人たちに少しずつ時間を掛けて報告を済ませていった。だが、一人だけなかなか言い出せない人がいた。それが父の二三夫だった。ナオが小学生のころから仕事の合間を縫って試合会場に足を運び、カメラで収めてきた。今も実家には当時の試合映像がたくさん残っている。プロ入り後も、良き理解者で、一番のファンであり続けた。

■プロ入りのきっかけは父の言葉

その二三夫が、たった一度だけ「サッカーを辞めろ」と言ったことがあった。横浜F・マリノスユースからトップチームへの昇格を目指していた高2の冬に、当時の木村浩吉強化部長から大学進学を考えるように伝えられた。自暴自棄になったナオは、「もう辞めようかな」とポツリと漏らした。その弱気な態度に腹を立てた二三夫は、間髪入れずに「それなら辞めちまえ」と怒鳴った。

「誰も頼んでサッカーをやってくれとは言っていない。やりたいのなら協力はする。でも、辞めたいなら勝手にしろ」

二三夫はその時のことを今も後悔していると言う。3兄弟の長男として、いつも両親に心配を掛けないように、悩みごとがあっても自分で解決してきた。そのナオが、初めて両親の前でこぼした愚痴だった。二三夫は、今でも理由を聞かずに一方的にしかりつけたことを悔やんでいる。

「もうちょっとゆっくり話を聞いてあげれば良かったとも思う。いろいろと悩んでいただろうし、考えていることを聞いてあげられれば良かったと反省しています」

だが、このことが、プロへの道を切り開くきっかけとなった。当時のナオはトップチームから練習参加の打診がなく、ユースでも出場機会を失いかけていた頃だった。その言葉を境に弱気を引っ込め、自宅の部屋の壁に一枚の紙を貼った。そこにはこう書かれていた。

目標
トップチーム昇格
U-18日本代表選出

その後、最終学年となり、トップ下からコンバートされた右サイドでのプレーを確立。日本クラブユース選手権で大活躍し、トップチーム昇格、世代別代表入りという目標をかなえていった。すべては、息子を突き放した父親の言葉から始まった。

もともと口数が多い父親ではなかった。わんぱくな3兄弟にとっては厳しく、おっかない存在だった。それでも自分に家族ができた今、ナオは「親父の気持ちが少し分かるようになった」と言う。だから、「一番言いたくなかった人だから、報告がギリギリになった」

「新潟戦を味スタに見に来ていたから、その帰り際に伝えた。こっちは整理した上で伝えたけど、突然だったから相当いろいろ思ったんじゃないかな。俺が言った瞬間、母親は父親がどんな顔するのかを見てた。しばらく固まって半べそをかいていたけど、その後、『長い間ごくろうさま』って言ってくれた。子供の頃からどんな時もそばで見てくれていた。だから家族には自分らしい形で最後の姿を見せたいね」

昨年末、その父は体調を崩して1カ月ほど入院した。現在は病気も快方に向かい、ようやく生き甲斐だったFC東京の応援にも来られるようになった。これからまた息子の雄姿を見たいと思っていた矢先の引退発表を受け、二三夫はさびしそうに心境を口にした。

「直宏が家を出て18年。彼の人生の半分が過ぎようとしている。ケガも多かったけど、それでも長くできたほうなのかな。自分が選んだ東京という場所で、ここまで長くプレーをしてきた。この2年はほとんど試合に出ていないのに、それでもチームは居場所を与えてくれた。それは直宏が一生懸命やってきた証なのかなと思うので、褒めてあげたいですね。本当はリーグ優勝できれば良かったのかもしれない。まだ完全燃焼できていないのが少しかわいそうかな。辛いことのほうが多かったのかもしれない。それでも頑張ってきた。10分でもいいから試合に出てほしいですね。その時は飛んででもいきたいですね」

二三夫が3兄弟の中で唯一名前をつけたのがナオだった。祖父・直次郎さんから一字を譲り受ける形で「直宏」と命名した。ナオは7月31日、その祖父の墓前で手を合わせた。

「『直』という文字を譲り受けた以上、それに恥じないプレーを見せたいって報告してきた。祖父は父親がまだ小学生の時に亡くなっているから自分は会ったこともないんだけどね。でも、重ね合わせる部分もある。自分の人生は、そういう先祖がいて、今につながっている。それはクラブも同じだと思うんだよね。今までいろいろな人が関わって歴史を紡いできた。そういう思いを背負って戦える選手やスタッフが多いほど、このクラブはきっと良くなっていくと思う。そういう選手を増やしていきたいんだよね」

《後編に続く》

文=馬場康平

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最終更新:8/10(木) 12:02
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