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家族の手紙 硫黄島へ 戦後72年 パイロットが語る 米機弾丸避け決死の飛行

8/12(土) 14:21配信

産経新聞

 第二次大戦で激戦地となった硫黄島に、兵士たちの家族の手紙を届けていた元海軍パイロットの男性が、戦後72年を機に、当時の様子や鎮魂への思いを初めて語った。元海軍中尉で一式陸上攻撃機(一式陸攻)パイロットの田中修さん(94)=滋賀県草津市在住。当時の様子は、陸軍の指揮官、栗林忠道中将と東京の家族との手紙の絆を描いた映画「硫黄島からの手紙」(平成18年)でも取り上げられた。多くの仲間を失った田中さんは「悲惨な戦争を二度と繰り返してはいけない」と語っている。(戸津井康之)

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 「任務は硫黄島へ赴任する士官を乗せ、兵士あての家族の手紙や物資を空輸し、島に着くと、本土へ帰還する士官を乗せ、兵士から家族あての手紙を積んで基地へ戻ることでした」

 田中さんは大正11年、京都市で生まれ、大津市で育った。同志社高等商業学校(現同志社大商学部)に進学。在学中の昭和18年、第13期海軍飛行予備学生に志願し海軍へ入隊した。三重県の三重海軍航空隊、鹿児島県の鹿屋海軍航空隊などで操縦士となるための訓練を受けた。

 一式陸攻の操縦士となった19年7月、千葉県の木更津基地へ赴任。硫黄島への物資輸送の任務に就いた。

 ■「みんな待ってる」

 約1200キロ離れた硫黄島への飛行時間は約4時間半。物資輸送中の一式陸攻の多くが撃墜される危険な任務だった。「島のみんなが手紙を待っていた。だから撃ち落とされるわけにはいきませんでした」という田中さんも何度も米軍機と遭遇した。現在のようにレーダー技術はなく、いかに早く目視で敵機を発見するかが生死を分けた。

 「島に近づいたとき、米戦闘機P38ライトニング数機と遭遇した。私は海面に向かって下降し速度を上げ、同時に機体をスライドさせながら機銃の弾丸をよけました」

 危険な任務の中、着陸後の硫黄島の基地で「主翼に(敵機の弾丸で)いくつも穴があいています」と整備兵に指摘されたこともあった。

 ■特攻直前の終戦

 20年3月、硫黄島は米軍によって陥落した。田中さんの所属する航空隊は青森・三沢基地へと転戦する。戦争末期、日本全土が米爆撃機B29の空襲の脅威にさらされていた。これを阻止するため日本軍はサイパン島の基地を攻撃する「剣号(けんごう)作戦」(剣作戦)を極秘に計画していた。

 「サイパン島まで約2400キロ。爆弾を抱えた陸軍兵士を乗せた攻撃機だけによる片道燃料の特攻です。無謀な作戦でした」

 田中さんの特攻の日は8月19日に決まったが、直前の15日に終戦を迎え、出撃することはなかった。

 その日から72年。まもなく95歳を迎える。思い出すことさえつらかった体験だが、元気なうちに伝えなければならないとの思いも増してきた。田中さんは言う。

 「私は22、23歳で機長を務め、他の搭乗員は17、18歳の若者たちでした。志半ばで散った仲間の死を忘れてはいけない。だからこそ、若者を戦地に送り出す悲惨な戦争を二度と繰り返してはいけない」

最終更新:8/12(土) 15:26
産経新聞