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戦犯の悲しみ、今に BC級死刑囚見送った教誨師、遺族の手紙や手記発見

8/13(日) 18:00配信

カナロコ by 神奈川新聞

 終戦後にシンガポールのチャンギー刑務所で処刑されたBC級戦犯死刑囚の教誨(きょうかい)師を務めた川崎市川崎区の僧侶、関口亮共(りょうきょう)さん(1913~82年)が保管していた手記や手紙が見つかり、この夏、孫娘らが整理して一冊の本にまとめた。収められた資料からは、異国の地で最期を待つ受刑者に寄り添い、帰国後も遺族と誠実に向き合った亮共さんの姿がうかがえる。

 亮共さんは同区大師本町の明長寺住職の三男として生まれ、20歳で僧侶となり、後に小学校教員も務めた。37年の召集で中国に、43年の召集で南方に従軍し、シンガポールで終戦を迎えた。

 シンガポール法廷の戦犯裁判の開始を受け、33歳の若さで教誨師に任命された。死刑囚と面会し、絞首刑の前にはお経を上げた。1年弱の間に87人の執行を見送り、帰国後は遺書を遺族に届けた。教職にも復帰し、56年に明長寺住職になった。

 手記や手紙は2015年春、亮共さんの孫娘の伊藤京子さん(37)が同寺本堂の収納庫を整理中に見つけた。刑務所で書かれた手記のほか、刑死者の遺族から届いた礼状だった。減刑され死刑を免れた朝鮮人BC級戦犯の手紙もあった。

 伊藤さんは、亮共さんの教え子で檀家の布川玲子・元山梨学院大学教授(72)に相談。2人は「貴重な資料。日本中の人に伝えなければ」と出版を思い立ち、資料を分類して解読した。

 遺族から届いた33通の手紙は、「お国のために」と出征した息子や夫、兄弟が終戦後に戦争犯罪人の汚名を着せられ、刑死を強いられたことへのやり場のない悲しみがつづられていた。

 ある遺族は「新聞紙上の如く英兵を虐殺したので御座いませうか。或いは部下の責任を負ったのかもしれませんが、余りに罪が重う御座います」と嘆いた。別の遺族は「戦死は覚悟致して居ましたのですが、罪人と成ったのが何よりもつらく思って日夜骨が一つ一つ別れるやうな思いを致しました」とつづった。中には減刑を報じた記事を見て安堵(あんど)した後に遺書と遺髪が届いたため、肉親の顔写真を送ってきて確認を頼んできた遺族もあった。

 伊藤さんは「6通をやりとりしたご遺族は、幼い子と残されて生きる望みを失っていた気持ちが前向きに変わっていく様子が読み取れた。祖父は受刑者にも遺族にも誠心誠意寄り添ったんだと思う」と話す。

 布川さんは「遺族は亡くなる前の肉親の様子を知りたいわけです。遺族と受刑者をつなごうと、復員した後も死刑囚に寄り添うのと同じく遺族に応対されたことに敬服する」と語る。

 亮共さんは晩年、元戦犯で「印度洋殉難録」の作者城地(しろち)慈仙(じせん)氏に宛てた一文に「お一人お一人が昨日の様に蘇って参ります。どうする事もできなかった自分の非力、不甲斐なさを断腸の思いで過ごして参りました」と心情を吐露している。布川さんは「晩年は教員時代のきりっとしたたたずまいではなく、酒飲みでも知られていた。でも酔いたいだけの理由があったのでしょう。教誨師として果たされたご苦労を思うと涙がこみ上げてくる」と声を詰まらせた。
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 布川さんと伊藤さんの編著書「教誨師 関口亮共とBC級戦犯」は日本評論社から出版されている。

 ◆BC級戦犯 第2次大戦後、連合国によって捕虜虐待など「人道に対する罪」や「通例の戦争犯罪」に問われた元軍人ら。戦場となったアジア各地や横浜の法廷で裁かれた。約5700人が起訴され、900人以上が死刑となった。下級将校や下士官、憲兵が多かった。ずさんな調査や虚偽の証言で裁判が進められた例もあった。