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<戦後72年>クスノキに復興重ね 尼崎空襲から再生

8/14(月) 12:29配信

毎日新聞

 兵庫県尼崎市西長洲町の民家の庭に高さ10メートルほどのクスノキが立つ。太平洋戦争末期の1945年3月から8月にかけ、計8回に及んだ「尼崎空襲」で家々と共に焼け、真っ黒な幹を残して焦土に埋もれた。だが、終戦から2年後、小さな芽を出した--。地元の高齢者福祉施設で働く関山庄司さん(47)はこの夏、初めて父光司さん(81)からクスノキを巡る72年前の一家の物語を聴いた。【高尾具成】

 関山さんは職場の高齢者との対話を通じて尼崎空襲を知り、父の戦中戦後を聴こうと思い立った。同町周辺は45年6月1日、米軍の焼夷(しょうい)弾爆撃を受け、少なくとも248人が死亡、3453棟が全焼。直径1メートルもある巨木だったクスノキの木陰も消失した。

 当時、光司さんは小学3年生だった。両親と姉2人、兄と2歳の妹の7人家族で、その日は約30キロ北の宝塚に疎開中だった。午前11時に空襲が始まり、尼崎方面に立ち上る黒煙に心配を募らせた。町会長を務めていた光司さんの父留三郎さん(83年に81歳で死去)だけは町を離れることができなかったからだ。

 翌日戻ると街はくすぶり続け、異臭が鼻をついた。留三郎さんは焼け跡に残る寺の門に「尋ね人」の掲示を出すなど懸命の形相だった。光司さんが近くの神社に行くと黒焦げの遺体が山積みにされていた。「校章付きの帽子をかぶった同級生がおってね。うちの庭の防空壕(ごう)に避難した中学生も息絶えて--」。顔を曇らせた。

 留三郎さんは生涯、犠牲となった地域住民を弔い続けた。終戦から17年後、仲間と共に地区の公園に「平和塔」を建立した。「300人以上の犠牲者名を一筆一筆、祈るように記帳し、塔の中に収めたんよ」。光司さんの妻尚子(たかこ)さん(79)は息子に振り返った。

 空襲翌日から自宅跡に建てたバラック暮らしが始まった。農家だったが食料難は深刻で、光司さんは「負けた(終戦)のは覚えとりませんが飢えは忘れられん」と続けた。

 戦後もバラック生活が続いたが、母ミサさん(61年、56歳で死去)が残骸だと思っていたクスノキから新芽が出ていることに気づいた。「箸の長さほどの木が生えてるやん」。焼け跡だらけで緑が少なかった分、目に飛び込んだらしく、庭でうれしそうだった。「『クスノキを見習うて頑張らなあ』。それが母の口ぐせになってね」。妹光子さんが6歳で病死した後も、一家は新芽の成長に復興を重ねるよう大切に接してきた。

 「この木のお陰で今があるんや。ずっと犠牲者への思いは消えんけど、『はげましのクスノキ』って呼んでな」。光司さんがつぶやく横で、関山さんは静かに、繰り返し、うなずいた。

最終更新:8/14(月) 12:29
毎日新聞