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<福島県大熊町>震災から6年5か月~津波に流された娘・汐凪(ゆうな)を捜して(4)捜索活動、避難先から通い続け 【尾崎孝史】

8/14(月) 6:20配信

アジアプレス・ネットワーク

◆なぜ汐凪は犠牲になったのか、自問の日々

紀夫さんが町に戻れたのは、震災から3カ月が過ぎた6月。自衛隊による捜索に立ち会うためだった。同行者が持参した線量計の値は、毎時40マイクロシーベルト前後を示していた。

【関連写真を見る】 原発から20キロメートルの道に設置されたバリケード。「許可なく立ち入ると罰せられる」と記されている。

その後、年に数回のみ立ち入りが許される一時帰宅の制度が始まる。一時帰宅が許された日、紀夫さんは防護服で全身を覆い、一人で海岸のがれきを払いのけたり、テトラポッドの間をのぞき込むような捜索を続けた。

猛暑の中、自宅の周りに生い茂った草木を、筆者と二人で刈り取ったこともある。かつて120軒の家族が暮らしを営んでいた熊川地区。何一つ動くものもない無人の荒野を前に、意識がくらみそうになった。紀夫さんと私は津波で欄干の一部が破壊された熊川の橋に座り込み、海をながめながら吹き出す汗をぬぐった。

孤独にも見える捜索活動。生き残った長女を被曝させたくないと避難先に選んだ長野県からは450キロメートル、車で片道6時間以上もかかる。シングルファーザーとして慣れない家事をこなしながら、一人捜索を続けるのは大変なことだ。紀夫さんを現場へと駆り立てたものは何だったのか。震災直後の思いを記した文章に、胸のうちが綴られている。

どうして汐凪は犠牲になったのだろう? 長女の舞雪を学校に残して行ったにもかかわらず、なぜ私の父は汐凪を自宅へ連れ帰ってしまったのだろう? 私は津波も見てはいないし、家族が流される瞬間も知りません。家族が犠牲になったという実感がないのです。突然いなくなったという感じでしょうか。

汐凪を捜してやれないということが、後ろめたさと共に心を痛めつけます。娘が流されたというのに、何もしてやれないのです。その心の痛みを東電の経営者はどう考えるのでしょうか。

汐凪の犠牲と原発事故は、全く別の話だと思います。汐凪は、津波に流されたのであって、原発の犠牲になったわけではありません。しかし、満足に捜してやれなかったことについて東電の責任は重大です。実際に、私の父は震災の次の日に捜索していれば確実に見つけられた場所で、49日後に発見されました。この49日間の野ざらしは、東電の責任以外の何物でもないのですから」(拙著『汐凪を捜して』より)

汐凪さんの捜索エリアについて、紀夫さんはどう考えていたのか。検討するための材料は、父と妻の遺体が見つかった場所だった。父の王太朗さんは自宅から南へ200メートルほど離れた田んぼで、妻の深雪さんは南に40キロほど離れた洋上で発見された。

震災から2年後、紀夫さんは自ら立ち上げたボランティア団体「team汐笑」のメンバーと捜索を行った。自宅から南へ6キロのところにある富岡町の仏浜には砂地が続いている。そこを大人4人が横一列に並び、砂利の中に骨がないか目視しながら進んだ。
「人の骨には気泡があるらしい」。「これは魚の骨だな」。目ぼしいものを拾いながら、遊歩道から波打ち際まで進むのに15分かかった。津波によって地面が混ぜ返されたことを考えると、浜通りの海岸すべてを掘り起こして調べる必要がある。いったい何十年かかるのだろうかと、気が遠くなる思いがした。

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