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「やっぱり死ぬのは怖い」自分が戦地に送られたら… 戦後72年 記憶を訪ねて

8/14(月) 13:03配信

西日本新聞

 今の平和が奪われ、自分が戦地に送られたら…。

 昨今の政治状況や国際情勢を見ていると不安がよぎる。5日に嘉麻市碓井平和祈念館で開かれた「語り、伝える 戦争の話」で、太平洋戦争中の体験談を語った元海軍兵の坂本弘之さん(96)の言葉にヒントがあるように感じ、後日、同市下臼井の自宅を訪ねた。

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ひょっとしたら自分も“向こう側”だったかも

 1942年1月に入隊した坂本さんは、命の際を生き抜いた。

 中国内陸部で小型船に乗って偵察活動中、米軍機の急襲を受けた。機関銃の弾が1メートルおきに川面を打ちつけ、弾は乗船する兵士6人の間をすり抜けるように船底に転がった。「やっぱり死ぬのは怖い。そう強く思った瞬間だった」

 一度内地に戻り車の運転技術を身につけると、3カ月後には再び戦地へ。輸送船は中国・海南島に向かう洋上、敵潜水艦に遭遇した。船内の全海軍兵が警備に就く中、同じ船に乗っていた陸軍兵は演芸大会で盛り上がっていたという。

 混乱回避のため上官が兵数百人を船底近くに集めていたと思われるが、「彼らは何も知らないまま死ぬのかと思うと、同じ一兵卒だが哀れに感じた」と坂本さん。ひょっとしたら自分も何も知らされない“向こう側”だったかもしれないという想像力は、今の私たちにも必要だろう。

 海南島での任務は輸送分隊の運転手。駐留した飛行兵の訓練基地で週に1度は空襲を受けた。エンジン音を消して飛来してきた米軍機に追われたこともある。とっさに飛行機の針路から90度横に逃げた。先には防空壕(ごう)があったが、そこを目指した同僚3人は戦死し、数人が重軽傷を負った。

 日が暮れると、同期の通信兵が待機する暗号室を訪ねた。「インド放送」と呼ばれた連合国側のプロパガンダ放送からは、日本軍の被害がつぶさに把握できた。「ラジオを傍受するのは上官がいない深夜だけ。知人も内容が余りに衝撃的なだけに、誰かと共有したかったのだろう」と語る。迫る敗戦を感じ、とにかく生き延びたいと願った坂本さんに共感を覚えた。

 迎えた終戦。日本に戻ると、米軍の攻撃だけでなく、栄養不足や病気によっても多くの子どもや高齢者が命を落としていた。

 「戦争は戦場の兵士だけでなくすべての人を苦しめる。今は戦争を知る世代がいなくなることが一番の不安。だから私は語り続ける」。新たな戦争が始まらないように。言葉は重く響く。

西日本新聞社

最終更新:8/14(月) 13:03
西日本新聞