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「臭いだけは伝えられない」死体の山、家屋の焼け跡 忘れられぬ原子野 長崎の86歳

9/14(木) 11:55配信

西日本新聞

 長崎県諫早市の郷土史研究会「諫早史談会」会長の古賀力(つとむ)さん(86)=同市本野町=は言う。「…あれは原子野特有の臭いだったんでしょうね。死臭とも違う。あの臭いだけは忘れようにも忘れられないし、伝えようにも伝えられないですよ」。長崎原爆が投下された72年前の8月9日、古賀さんは爆心地から2・2キロの地点で被爆し、長崎市内をさまよった。少年の日の記憶に刻んだ「原子野の臭い」とは、どんなものだったのか-。

⇒【画像】被爆当時に古賀さんが身に着けていたバッジ

 当時、旧制長崎中の3年生。両親らは大村市に疎開し、自身は通学のため、長崎市城山町に祖母と暮らしていた。校舎は三菱長崎造船所の疎開工場になっており、あの日は同級生たちと製造した部品を同造船所の本工場に運ぶよう命じられていた。

 大八車を押し、現在の長崎市中町の空き地にたどり着いた時だった。B29の飛行音が聞こえ、見上げた空に落下傘が見えた。広島を壊滅させたという「落下傘爆弾」のうわさが頭をよぎった。「あっ」。瞬間、真っ白な閃光(せんこう)に視界を失った。

 古賀さんも同級生も大きな傷は負わなかった。土ぼこりやがれきの中を走り、防空壕(ごう)で2時間ほど過ごして学校に戻ると帰宅するように言われた。同級生と一緒に燃えさかる市街地を避け、尾根伝いに浦上方面を目指した。煙が薄れると廃虚と化した街が見えた。熱で噴き上がったごみと黒い雨が降り注ぎ、服が真っ黒になった。

 古賀さんはこの日、長与駅から被爆者を運ぶ救援列車の炭水車にしがみつき、諫早駅から夜通し歩いて大村にいる家族のもとにたどり着いている。母親は古賀さんを抱きしめて開口一番、こう声を上げた。

 「兄ちゃん、この臭いはなんねっ」

北朝鮮の水爆実験「なんてばかなことを」

 原子野の臭いについては、原爆投下翌日に入市被爆した元長崎大学長の土山秀夫さん=2日死去=もこういう言葉を残している。

 「死体を焼く臭い、焦げくさい臭い、その他散乱している腐敗死体の臭い、そういったものが一斉に襲ってまいります。(写真や映像は当時の惨状を伝えるが)ただ一つ伝えられないのは、この臭いでございます」(2005年講演「医学徒として原子野で見たもの」より)

 古賀さんは翌10日、祖母や親類の安否を確かめるため、長崎市に戻った。街角や焼けた路面電車の車内には真っ黒な死体の山が積み上がっていた。夜になり、懐中電灯で照らした先に皮膚が焼けただれた「赤い馬」が現れて息をのんだ。祖母は倒壊した家屋の焼け跡で「人間とは思えない状態」で亡くなっていた。

 その後も1週間ほど原子野にとどまり、道ばたの死体を確かめたり、避難所を訪ねたりしながら親類を捜している。食事は近隣の自治体が派遣した救援隊が提供するにぎり飯と大根漬けだった。

 「…だからね。今も大根漬けは食べられんのよ。あの原子野の臭いがよみがえってくるから」

 古賀さんは高校卒業後に大阪府警に勤務した後、両親が営んでいた養鶏業を継ぐため30代後半に諫早へ。考古学が好きだったこともあり、諫早史談会に入会して史跡調査に携わり、2004年から会長を務めている。被爆体験については長く口を閉ざしていたが、13年発行の史談会会報に体験記を発表。ここ数年は中学校で講演したり、孫娘に城山町を案内したりしている。

 取材中、北朝鮮が水爆実験を強行したというニュースが飛び込んできた。瞬間、古賀さんは表情を引きつらせた。「なんてばかなことを」

 原子野の臭いとはどういうものだったか。何度か尋ねるたびに古賀さんは言葉を探しあぐねた。

 「これは残せるもんじゃない。話して聞かせても実際に…実際に経験せんと分からん。頭の隅にこびりついているんだけどね」

 伝えきれないもどかしさをにじませた。

西日本新聞社

最終更新:9/14(木) 11:55
西日本新聞