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パナソニック100周年記念! 「松下幸之助 歴史館」に行ってきた

9/17(日) 6:40配信

ITmedia LifeStyle

 パナソニックは、2018年に創業100周年を迎える。8月24日には“これからの100年”に向けた所信表明を行うとともに新しいエアコン、ドラム式洗濯機、ロボット掃除機の新製品を発表した。多様化する生活スタイルに対応し、IoT(Internet of things)などの技術トレンドを取り入れたラインアップだ。

これが「松下電気器具製作所」の最初の製品だ

 もっとも、新しい技術の導入は、あくまでも世の中のニーズに応える手段だ。変化を続ける暮らしに常に寄り添う家電を作ること。同社の創業から一貫した考え方であり、時代と手段が変わっても根本は変わらない。

 今や、いち家電メーカーという枠を超え、グローバル企業にまで大きくなったパナソニックだが、最初は小さな会社だった。23歳の松下幸之助、22歳の妻、むめの、15歳の義弟、井植歳男、若い3人だけの「松下電気器具製作所」だ。今回は、そんなパナソニックがどのようなものを作り、社会へと貢献しながら成長してきたのか、パナソニック“これまでの100年”から築き上げられた礎を探るべく、大阪は門真市にあるパナソニック本社に隣接するパナソニックミュージアム「松下幸之助 歴史館」を訪ねた。

 和歌山県で8人兄弟の三男として生まれた松下幸之助は、裕福だった家庭に生まれたものの、父が米相場に手を出し失敗。9歳の頃に小学校を中退し、大阪の商家に丁稚奉公に出された。そこで実業を学んだ幸之助は、10代の頃に電気に将来性を感じ、後にソケットの販売を開始。1918年に「松下電気器具製作所」を創設した。数え切れないほどの名言を残し、“経営の神様”と呼ばれる日本を代表する実業家となる。

●創業から第二次世界大戦まで

 「松下電気器具製作所」の最初の製品。便利で品質の良い配線器具に需要があるとみて開発に着手したのが改良アタッチメントプラグだ。当時から常に通電していた電球の口金を再利用する形で、低価格で精度の高いプラグを開発。「便利で品質の良い配線器具を作れば、一般の家庭にいくらでも需要がある」と強い確信を持っていたという松下幸之助。その言葉通り、一般の製品より品質が良く、価格も3~5割安かったため、評判となりよく売れたという。

 今とは比較にならないほど脆弱な家庭内の電力事情。照明のソケットを家電で使用すると、その間は照明が使えなくなるという不便さを解消するため、照明と電化製品を同時に使うための二股ソケットを製品化。使いやすさや丈夫さ、手頃な価格から人気を博した。

 ローソクや石油ランプの不便を解消すべく、夜間でも気軽に自転車に乗れるよう、バッテリー式のランプを考案。当時も類似製品はあったものの、それらと比較して電池寿命が10倍以上、30~40時間も長く使えるという画期的な新製品だったのが砲弾型電池式ランプだ。それでも最初は1個も売れず苦戦したが、販売店に無償で使ってもらうという思い切った宣伝方法から話題となり、結果として人気商品となる。

 当時、贅沢品であり、富裕層しか手にできないアイテムだったアイロン。そんな状況に「品質が良くて、誰でも手軽に使える価格の安い電熱器」の開発を決意した松下幸之助。独自の機構を開発するとともに、生産方式でもフォードの大量生産方式で量産。市場価格の3割以上も安くして大ヒットする。昭和5年には商工省から国産優良品に指定された。

 高性能サーモスタットと温度ヒューズを組み込んだ2重安全設計の丸山型電気コタツ。木製のカバーを丸くすることでこたつ布団が引っかからず、足を置いても痛くないなど、ユーザーの使い勝手を考えた形状。現在でいうユニバーサルデザインだ。

 パナソニックのラジオ第1号。ラジオは故障するのが常識だった当時、「故障が起こらないラジオ」を目標にたった3カ月で開発した。

 当時品質がまだまだ低かった電球だったが、高品質の国産電球を世に出すべく、電球事業にも進出。価格は高めだったものの、販売店の協力もあったことで軌道に乗り、電球事業の礎を築いた製品。左が「シスター電球」40W/40W(40銭)、右が「標準型電球」60W(36銭)。

 同社扇風機の1号機。当時の価格で25円。

 1938年の時点で「試作テレビ第1号」を開発。1940年(昭和15年)に日本の東京府東京市(現・東京都区部)で開催される予定だった東京オリンピックだったが、支那事変等の影響から同年7月にその実施が中止。その後、第二次世界大戦へと突き進むことになり開発は中止されたものの、実は戦後の同社テレビ開発を加速させた立役者的試作品であった。

●1945年第二次大戦終了後~松下幸之助没まで

 戦後、民需生産再開の先駆けとなった製品は懐中電灯だった。

 松下幸之助自身がアメリカ視察の際に見た家電製品の便利さに感銘を受け、まずは洗濯機を開発。当時洗濯は主婦にとって大きな負担であり、「主婦を家事労働から解放する」ものとして売り出されたのがこちらの洗濯機だった。とはいえ、洗濯機1号機には現在では当たり前の脱水機能などは未搭載。当時の価格で4万6000円。

 戦時中に開発が中断していたがテレビであったが、戦後本放送の開始を機に陽の目を見ることに。日本でテレビ放送が始まったのが1953年で、その1年前に発売されたのがこちらの17インチ白黒テレビ。当時の価格で29万円は高卒初任給の50倍以上とかなり高価だったことから、松下幸之助はもっと普通の人たちが手の届く価格帯で作らないとダメだと決意したという。

 1950年代にすでにバスなどの車両を改造し、テレビや洗濯機などを載せて、街頭などで宣伝活動を行うためのテレビジョンカーやモデルハウスなどを走らせていた。さらに良い製品であることを多くの人に知ってもらうために、電化展を開催したり、東京駅の八重洲口にナショナルショウルームを作るなど、当時から積極的に消費者に近づいていった企業であることがよく分かる。

 テレビ放送を機に始まった電化ブームの中で販売を開始。当時はテレビ、洗濯機と並び“三種の神器”と呼ばれ、文化生活の象徴となっていたのが冷蔵庫であった。冷蔵庫は冷凍室が庫内に設けられており、これは現在でも小型の冷蔵庫などに採用されている方式。当時の価格は12万9000円。

 現在のエアコンの原型として開発されたホームクーラー。前年に事業部で水冷式ルームクーラーを開発した際、松下幸之助は「風が冷たいなぁ、いい気持ちやなぁ。これが安くできたら、世の中の人は喜ぶやろうな」と言ったと、後年当時の製造担当者は語ったという。暖房機能はなく冷房専用だったが、扇風機に代わるものとして夏に重宝された。

 タクシー用無線機も開発。送受信機と電源部の一体構造で小型化され、当社民生用無線機の基礎となったベストセラーモデル。元々はラジオの通信技術を応用したもので、この頃からB to B事業への拡大も視野に入れていったという象徴的アイテム。 同年松下通信工業を設立。

 筒形デザインを採用し、取り回しの良さから人気になったシリンダー型(キャニスター型)掃除機。掃除機分野ではその後、業界初の機能を次々と開発し、大きく飛躍していった。

 毎年高機能モデルが開発される電気炊飯器の原点となった製品。扱いやすく故障しにくい上、炊飯機能にこだわった。

 電子レンジの1号商品。大型で115万円と高価だったため、主に業務用として利用されていた。その後、家庭用の普及を目指し、2年後には家庭用の電子レンジを発売。そちらは当時の価格で19万8000円と、1号商品と比べかなり安価に。

 長寿命を売りにした乾電池シリーズの第1弾。長期保存が可能で液漏れしにくい、さらに暑さ寒さにも強いなど、優れた点が多かった。

 テクニクス技術陣が世界に先駆けて開発したダイレクトドライブ方式のターンテーブル。

 リモコンの誤作動が国会の場で審議されるなど、テレビの信頼性が問題となる中、安定動作する赤外線リモコンを世界で初めて採用したテレビ。なお、現在はテレビだけでなく、普及しているほとんどの電子機器の制御に赤外線が使われるなど、リモコンの原型となったのもこちらのテレビといえる。

 VHS方式を採用し、長時間録画と鮮明な映像が特徴だった「マックロード」が登場。留守録など多彩な機能を備えて人気があった。

 国内初となるIH(電磁誘導加熱)式を採用。高火力で手軽に美味しいご飯が炊けることで、後にこの方式が主流となっていった。

 世界初となるガラスモールド非球面レンズやジャイロ式手振れ補正を搭載したS-VHS C対応のビデオカメラ「NV-S1」。手のひらサイズで、家庭用ビデオカメラの普及に貢献した。

 堅牢型ノートPCの代表格“タフブック”の第1号機がこちらの「CF-25」。屋外での過酷な環境下で使用しても壊れにくいPCが欲しいというニーズに応えるために開発された。砂埃などが舞う建設現場や工事現場などで活躍した。

 いかがだっただろうか。この歴史館は松下幸之助の生涯を伝えるために作られたもので、94歳で亡くなった1989年までの情報で構成されている。また、この2017年10月いっぱいで閉館し、2018年3月に新たな歴史館へと生まれ変わる予定とのこと。もし現在の歴史館に訪れたい方はお早めにどうぞ。

●松下幸之助 歴史館 所在地

〒571-8501
 大阪府門真市大字門真1006

 電話番号 06-6906-0106
 入場料 無料

 休館日 日曜・祝日

最終更新:9/17(日) 6:40
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